第一章イオニアの華

二、騾馬の王





 王子アステュアゲスの孫クルは、アンシャンの親元に帰されることになった。王子が付けた護衛兼世話役によって自分の出生の秘密を聞かされたクルは、自分が牛飼ミトラダテスの血の繋がった実子でないことに驚愕したものの、時折養父が示す微かな哀しみの表情の理由が、何であるかに気づいて涙を零した。今まで育ててくれたお礼を養父母に言いたい…と願うまだ幼い少年に、世話役は首を静かに横に振った。それは牛飼ミトラダテスの妻スパコが、少年を自らの子と信じきっていたからであった。クルは出発を少しだけ遅らせてくれるよう願い出て、それまで真実父であると信じていた牛飼ミトラダテスの住居に向かい、静かに頭を垂れて深く祈った。少年を育ててくれた養父母が幸福に暮らしていけるように。いつまでも元気で居てくれるように。と。
 祈り終えたクルは、頬を伝う涙を拭いて立ち上がり、怖れる気配もなく初めての馬に乗った。彼にその生命を与えた、実の両親の元へと帰るために。

 故国アンシャンへ辿り着くと、国中がひっくり返るような騒ぎであった。死んでいたものと諦めていた世継が思いがけず生還したのである。それも十年ぶりに。クル少年の両親、メディア王子の娘マンダネとアンシャン王カンブージャが喜んだことは言うまでもない。少年は生母が求めるままに養父母や今までの生活ぶり、王様ごっこの遊びのことなどを物怖じすることもなくはきはきと話した。時折涙ぐむのは是非も無い。母マンダネもまた涙を浮かべ「良く生きていてくれました」と大きくなった我が子を抱きしめた。父カンブージャは流石にその瞳を濡らすことは無かったけれども、妻子を包み込むような温かい眼差しを注いでいる。両親の面差しは、明らかに少年に似ていた。養父母は「似ていない」とクルが外で言われる度に「お前は祖父母に似ているのだ」と言っていたが、それが嘘だったということを改めて少年は思い知った。しかしその愛情そのものに一点の嘘も偽りもなかったことをも気付いていた。クルはそれに深い感謝を捧げるとともに、実母の腕の中でそっと養父母に別れを告げた。揺籃のときは、今まさに終わりを迎えたのである。

 少年が帰郷して二年程経ったある日、エクバタナのメディア王宮から遣いがきた。それは王子の娘マンダネとその長男クルを招待するというものであった。ようやくアンシャンの少年らしくなってきたクルであるが、将来王となる身であればいろんな世界を学ぶ必要がある。母親が一緒であるなら、今更危害を加えられる可能性は低いだろう。そう判断した父王カンブージャは、クル自身に問うた。メディアへ行くことを望むか、否かと。少年らしいくりくりとした目をいっぱいに見ひらいて、息子は一瞬言葉を失ったようである。流石に殺されかけた土地では怖いだろうか。そう懸念しかけた父に、少年は輝くような笑顔を見せた。
「父上、行かせて下さい」
 クルが今学びたがっているのは、馬術であった。メディアでは騎馬術が盛んである。野山を駆け回っていたクルは徒競走には強かったし、身体は小柄ながら強健だったので、弓術や槍術は帰国後懸命に練習を重ねたお陰で、同世代の友人たちの中でも特に良く遣えるようになっていた。アンシャンは山がちで馬を養うことが難しい。故郷へ帰る旅で乗せて貰った馬に、少年はずっと憧れの念を抱いていたのだった。カンブージャはその様子を見、微笑んだ。しかし。祖父が少年を害する可能性が皆無という訳ではない。呼び寄せたことにせよ、あわよくば少年の命を奪おうとする意図が隠されていないとは限らぬ。カンブージャはしかし、息子に対しては「お祖父様にお行儀良くお仕えしなさい」と言ったのみであった。少年の強運を信じていたのかも知れない。
 それから数日後、クルは母マンダネとアンシャンを後にした。
 二年ぶりに会った祖父は、変わらなかった。同じように目の縁に化粧を施し、鬘を着用していた。赤紫色の肌着の上には長い衣服を重ね、胸元には美々しい首飾りがきらめく。勿論両腕には意匠を凝らした腕輪がはめられていた。少年は臣下としての分を守るべきか、それとも孫としての愛情を示してみるべきか少し考えた。そんな息子を横目に見て、両者の母であり娘であるマンダネはひっそりと笑った。
「クル、お父様とお祖父様とどちらがご立派に見えて?」
 母の、悪戯好きな瞳に彼の反応を楽しむような色が見えて、少年は微笑んだ。
「お父様はアンシャンの人の中ではもっとも立派な方です。お祖父様は路上と王宮で会いましたメディアの人の中ではもっとも立派でいらっしゃいます」
「まあ、この子ったら」
 母子の言葉を聞いていた祖父が口元を綻ばせる。歓心を買おうとしてマンダネが言わせたものかも知れぬが、その言葉は耳に快く、適度に酔わせる美酒のような旨味があった。
「お祖父様。アンシャンでは親しい人に接吻をする習慣があるのですが、僕がお祖父様に接吻するのは不敬でしょうか」
 メディア王宮との違いについて、母から聞かされていた少年は習慣の違いが時として相手にとって非礼となりうることを知っていたようである。
「構わぬが、どこにするのだ?」
「身分が同じ場合には唇に致しますが…、どちらかが低い場合には、低い方が高い方の頬に致します」
 はにかむような少年の、おずおずとした挨拶の接吻が祖父の頬に与えられると、王子アステュアゲスは孫に身の回りの品々を与えた。華やかな衣装に、腕輪や首飾りなどである。その中で、何よりクル少年を喜ばせたのは、金の鋲を打った馬勒を置いた馬である。その喜びように、かつて自身が父から馬を貰ったことを思い出していた祖父は、あの夢のことなどすっかり忘れ去ったかのように素直で明るい孫を気に入ったようであった。そして、少年がメディアを愛して故郷アンシャンへの気持ちを少しでも薄めるようにと、祖父は豪勢な食卓を用意した。食べきれぬ量の食事が並ぶのを見て、少年は祖父に願い出た。
「お祖父様、素晴らしいご馳走ですね。全て僕の好きにして宜しいですか?」
「無論だ。その為に用意させたのだからな」
 鷹揚な微笑みを見せ心持ち胸を反っていた祖父は、次の瞬間孫の行動に目を丸くした。少年は、祖父の召使たちにそのご馳走を手ずから与えはじめたのである。ある者には「お前は僕に、熱心に乗馬を教えてくれたから、これを」、またある者には「投槍をくれたね。ありがとう」。次には「僕の母上を大切にしてくれたから」と続き、「お祖父様に良くお仕えしてくれてありがとう」…そういった具合に一人ひとりに丁寧に言葉を添えて褒美を与え、忽ちのうちに食卓は少しのパンと少しの飲物を残して空っぽになった。勿論のことだが、それらのご馳走は召使たちが普段いつも目にしてはいても口にすることは出来ぬものである。しかしその少年の気前の良い行動が、料理の価値を知らぬ無知によるものでなく、知性と思いやりの上にあるものであることに彼等は気付いていた。これがアンシャン王カンブージャのご世継。アンシャンでは質実剛健で質素を好むというが、これほどとは。と召使達は目を見合わせて感歎した。しかし折角孫のためにと張り切って食卓を用意させた祖父は、驚き呆れてその様子を見つめている。母マンダネは少年の、アンシャン人らしい言動にひとり微笑んだ。その様は父であるカンブージャに良く似ている。親子として再会して、僅かに二年。見る見るうちに、アンシャンの少年の中でも特に傑出した様子を見せている息子は、紛れもなくカンブージャの子であった。その思いやりも、微笑みも。誠実さも。そして、それらがこの世界にもたらすであろうものも、マンダネには見えた。いつか彼女の父アステュアゲスの狭量さ身勝手さと激突し、敗れた側は滅び去っていくだろうことも。そう、遠くはない未来に。

 暫くして。アンシャン王妃マンダネは帰国の途についた。利発で明るい孫を溺愛する祖父は、手を変え品を変えしてクルをメディアに残していくよう娘を口説いた。弱った母マンダネが王子クルにその去就を尋ねると、少年はメディアに残りたいという。クルの目的は、やはり馬術であった。いずれアンシャンに騎馬隊を作ることを目論んでいたのである。十二歳という年齢にそぐわぬ先見の明か、単に子供の好奇心が馬へ向いたものかは不明だが、或いは次世代を見据えたアンシャン王カンブージャの差し金であった可能性があったかも知れぬ。いずれにせよ、少年は馬術を憶えた。それはクルの未来図を大きく広げることになるのである。

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