第一章イオニアの華
一、植民都市と都市国家
植民とは、殖民とも書く。ある都市から移住(主として海外)した者によって新たに経済的に開発された地域を言い、本国にとっては重要な基地・拠点であると同時に、原料供給地・商品市場・資本輸出地ともなる。政治上においては主権を有せず完全な属領であることが普通である。
世界史上では大航海時代(十五〜十六世紀)後の植民地建設が有名であろう。時代の立役者となったコロンブス達の目的がどうであれ、それは結果的に欧州各国による世界各地の植民地化という現象をもたらした。現在の国境線や地域の境界線、それから言語などというものによって当時の「本国」たる欧州諸国の支配の爪痕を見ることが出来る場合もある。現在、台湾の高齢者には日本語を自在に操る人々が存在する。それは、第二次世界大戦まで日本が台湾や韓国を植民地としていた歴史の証拠でもある。明治維新後、欧米による植民地の危機を乗り越えたと思った日本は、欧米の真似をアジアの他の国に対して為すことを試みた。いじめを受けた子供が、更なる弱者にいじめを行う場合がある。或いは、一部の人々は純粋にアジアを欧米による支配から守ろうと尽力したのかも知れないが、結果的には弱者に対して迫害を与えていたと言われても仕方のないことである。
クレタ文明及びミケーネ文明滅亡(それぞれ紀元前十四世紀頃?と紀元前十二世紀頃?)後、ギリシアは暗黒時代と呼ばれる時代に突入した。この時代の考古学上の出土品が少ない訳ではなく、交易が途絶えていた訳でもない。ただ、史料そのものが少ない上、史料自体があるにしても人口の減少、経済の衰退、諸外国との接触が激減したことに加えて文化の後退を示していることは確かなようで、生活の水準そのものが低くなっている可能性も示唆されているが、それらを乗り越えてギリシアはあらたな成長を遂げていく。全体的には暗い時代とされながらも新しいものを包みこんで守り育てた時代であると言えるかも知れない。
紀元前八世紀初頭、その暗黒時代の終焉とともにギリシア都市国家(ポリス)の興隆がおこる。その多くは都市を中心にして発展し、城壁をはりめぐらして防衛するタイプの都市で、アクロポリスと呼ばれる城塞を中心にして作られた。そこは神殿の区域であり、有事には避難場所ともなった。アクロポリスとは「丘の上にある都市」という意味であり、アテナイにある丘だけのことを指す言葉ではない。人々は都市や周辺の農村部に住み、それぞれのポリスでそれぞれに政治上の制度を発展させて行った。市民の成人男子のみという制約はあるにせよ、条件を満たせば政治に参加出来ることは、絶対王権国家の多かった古代では稀と言えるだろう。王政を維持する国がないわけではないが、その権力は大幅に抑止され、選挙による役人である監督官(エフォロス/複数形エフォロイ)の監視を受けるなどの制度が設けられたりもしている。もう少しそれが進んだ状態では、王権は宗教・軍事・司法の役職に分割され、執政官(アルコン)としてその機能を受け継いでいる場合もある。それも任期を限定され、数年以内の再任を妨げるような工夫もなされていた。しかし一部には僭主(テュランノス)と呼ばれる独裁者が政権を独占していることもあった。貴族政と民主政の過渡期の小利口者達である。何れにしても現代の民主政治の芽がギリシアに生まれたことは間違いなさそうである。
人類史上、植民が行われた最初を明確にすることは難しいが、幾つかの民族大移動を除いて、紀元前九〜八世紀のフェニキアやギリシアにその萌芽を見出すことが出来る。ドーリス人の侵入は紀元前十世紀頃か。その混乱がようやくおさまったころ先の人口増加に伴う土地不足の危機にギリシア世界は追い込まれていた。父祖伝来の持分地(クレーロス)の分割相続と人口増加は、丁度日本の江戸時代を髣髴とさせる状況を生み出していて、没落する農民の数が膨大な数に上りつつあった。「タワケ」といえば愚か者を指す言葉で、その語源は「田を分ける」ことから来ているが、同じような事が紀元前のギリシアにもあった訳である。「貧困はギリシアの伴侶」という。しかしその貧困も度を過ぎれば飢えと死が待ち受けるのみである。日照りや水不足が続けば深刻さに拍車がかかるのだ。問題の打開策として適当で手っ取り早いのは、植民であった。結果、ギリシア本土から、黒海沿岸や地中海全域へ向かって船出をする植民団が数多く誕生した。ギリシア語で植民市を意味する「アポイキア」は分家という意味もある。母市は入植主導者(オイキステス)を決め、船やその他の援助を整えて入植する人々を集める。状況が緊迫している場合によっては強制が加えられることもあったが、入植者は必ずしもその都市の市民でなくても構わない。ただし、母市との絆はその後切れずに続くために、新たな問題に苦しむことになる事もある。近隣植民都市との関係は悪くなくても、その母市同士が関係を悪化させ、その争いに否応なく巻き込まれてしまうケースもあった。逆に時代を下ると母市の国制や守護神、習慣を尊重はしてもその支配に属することなく政治的に完全に独立していく都市も誕生していく。さて、母市が積極的に関与するのは大体このあたりまでで、行先の決定に多大な影響を及ぼすのは、神託である。都市を核として国家が形成されはじめた頃、ギリシアの幾つかの神域、デルフォイやエピダウロスをはじめとして神託所として有名な幾つかの場所がギリシア民族の中心となっていった。それぞれの理由を持って外界へ出て行く者達に指針や助言、祝福を与えるのは、そういったギリシア各地に点在する神託所の役目である。当初は神託のみに頼っていたかも知れないが、託宣が下る日には各地から神託を受ける者が集まり、そういった者同士での情報交換もあったことが予想される。或いは、神託を与える側もまた、各地に密偵を派遣して情報収集を行っていたかも知れぬ。
都市国家の発展とともにギリシア人の商人達はエーゲ海の外にまで大胆な進出を試みるようになっていった。地中海沿岸のかなり広範囲な地域にわたって、定期的な往来があったことが伺える、交易基地のあと(遺構)を見ることが出来る。同様な基地あるいは寄港地は各所に作られ、肥沃な土地を求めて盛んな入植が行われた。人口の増加や国家の形成は土地不足の原因としてかなり重要といえるだろう。ただし、それは第一の原因と断じることは危険でもある。植民活動が盛んだった時代は紀元前八世紀半ば頃から約二百年間。そして地中海東部では交易都市も成立している。最古のそれはシリアのアル・ミナであった。小アジアを中心に植民していったイオニア系の都市である。アテナイ、エレトリア、エフェソス、ミレトス、タソスと言ったところがイオニア系の代表的都市であろう。イオニア海と呼ばれる海はギリシア半島部の西側、イタリア半島との間の海のことだが、イオニア人と呼ばれる人々は寧ろギリシア東側、島嶼部や小アジア沿岸にこそ多い。イオニア式という柱頭が渦巻模様で飾られた、軽快かつ優美な建築様式は有名だが、イオニア地方といえばギリシア本土ではなく、ミレトスのある小アジア沿岸地域を指す。交易がもたらす情報は植民都市の建設に大きな影響を与えただろう。植民都市は小アジア(現在のトルコ)を中心に広がりを見せた。植民市がやがて母市となって新たな植民を行うことも起きたようである。そうした植民を数多く行って植民都市の中での支配的地位を獲得し、イオニア諸都市の中から台頭してきたミレトスは、「イオニアの華」の盛名をほしいままにしていた。紀元前六世紀後半のことである。