第一章イオニアの華

二、騾馬の王





 僧侶(マゴス)を前にして、王子アステュアゲスは憂鬱そうな顔をしていた。頭にあったのは、娘マンダネが産んだ息子……王子にとっては孫にあたる少年のことである。
「王様ごっこという遊びでお孫様が王様に選ばれたということは、既に夢は成就したと考えられます」
 そう王子に進言したのは、マンダネを産んだ王子妃の心中を慮ってのことか。同時に王子の顔色を伺うことも忘れていないあたり、中々の世渡り上手であるのかも知れぬ。美貌と才知を鼻にかけている奴だ。と王子は心の中で吐き捨てつつも、見つかってしまった孫の処遇に頭を悩ませている。偶然見つかった孫を今更害したとすれば、それを知った娘が黙っている筈がなかった。どうせなら見つからぬ方が良かった。市井に埋もれて幸福に暮しているのなら、わざわざ追い立てる必要もなかったのに。見つかったことを我が身の不幸と諦めさせ、因果を含めて殺すか。或いは…。しかし、王位を孫に与える訳には行かぬ。メディア王家の血は引いてはいても、父親はアンシャン如きの王でしかないのだ。過分な望みを抱かぬよう、言い聞かせねばなるまい。
「王様ごっこなる遊び如きの為に夢などとは。大袈裟なことだが」
 まだ完全に納得しきっていない王子は僧侶に対して抗弁を試みる。
「されど。今お孫様を害されては、マンダネ様もお妃様も黙っておられますまい」
 思っていたことをずばり。と言い当てられて、珍しく王子は言葉に詰まった。
「それに。お孫様の父親であるカンブージャ様とて、穏やかな方とは伺いまするが。怨みを抱かずに居るのは難しいかと」
 それは駄目押しだった。王子は重く湿った吐息を一つついて、孫を迎え入れる手配を命じた。

 数日の後。王子アステュアゲスの晩餐に招かれた客の中に、一組の親子がいた。寵臣ハルパゴスとその息子である。初めて見る煌びやかな王宮に、瞳を輝かせている少年に向かって、父親は一つひとつを丁寧に解説してやっていた。何れ、この子もこの王宮に詰めるようになるのだ。その時に役立つであろう知識を、今から与えておくのは悪くはない。そう思ってのことではあったが、ふと左側頭部に頭痛を憶えて顔を顰めた。
「父上。また頭痛が? 最近多いようですが大丈夫ですか?」
 十三になったばかりの息子の、賢しげだが父親に対する思いやりの感じられる物言いに、ハルパゴスは顔を綻ばせた。
「年齢のせいだろう。お前から労りを受けるようになってはな。私も年老いた訳だ。いろんなところにガタがきておる」
 些か諧謔を含んだ父親の言葉に、少年は笑った。その笑顔が霞んだような気がしたのは錯覚だったのか。目を瞬かせて見直す。眼球もまた老いたのかも知れぬ。とハルパゴスは息子を促して歩き始めた。
「御子息はこちらに、との殿下のお言葉でございます」
 召使の者はハルパゴスの知らぬ男であった。どこか陰鬱な気の漂うその顔を眺め、息子を渡すことを暫時躊躇ったが、父がその言葉に答える前に息子はさっと身を翻していた。
「父上、行って参ります」
 心の弾みをそのまま表現したような息子の声に、父は笑顔を返した。それが永遠の別れとも知らず。

 着席するとすぐに酒が配られた。戻らぬ息子はもしかしたら王子アステュアゲスの配慮で、お孫様クル様に同席させて頂いているのかも知れぬ。そう思ったハルパゴスを誰も笑うことは出来ないだろう。その時、先程と同じ頭痛に加えて酷い胸騒ぎを憶えた。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。脂汗までもが滲んで来て、彼は自らの体をやっとの思いで支えていた。何か、良くないことが起こりそうな。そういう予感である。しかし、何をどうすべきかまでは判らぬ。中途半端な勘の良さが却ってハルパゴスの苛立ちを募らせているようだった。
 王子が現れ晩餐が始まった。次々に並べられていく食事は、当然ながら贅を凝らした作りになっていて、手間隙をかけたことが一目瞭然であった。添えられた野菜の彩りの鮮やかさは、目に焼きついてくるよう。肉の香ばしさは辺り一面に漂って、いやが上にも食欲をそそる。果物は瑞々しく果汁の滴るよう。配られた酒は王子秘蔵の名酒。そして食事を運ぶのは、国でも指折りの美女ばかりであった。ハルパゴスは先程の頭痛の重さもどこへやら、夢見心地である。そして出された肉に口をつけた瞬間、何かがおかしいと気付いた。獣肉特有の臭みが一切なかったのである。柔らかな肉は丁寧に味付けされ、調理されているようだが、それだけでこれほど臭みが消えるものだろうか? 不審を憶えて手を止めると、王子がさりげなく視線を当てているのに気付いた。
「どうした、ハルパゴス。口に合わぬか?」
 ゆったりとした王者の微笑み。今夜はそれにまるで毒蛾の鱗粉が振りかけられているようである。ぞわっとした寒気がハルパゴスを捉えた。
「い、いえ。結構なお味でございます。わたくしめ、このようなご馳走には滅多にお目にかかれませぬゆえ、気後れしてしまいまして。申し訳ございませぬ」
 呂律の回りきらぬ舌でそれだけ言うと、料理を口に運んだ。王子が冷たい笑いを浮かべているのを見て、ハルパゴスは疑念を抱いたが、王子は満足気に肯く。
「そうであろう。お前の為にわざわざ用意した特別の食材ゆえ」
 その右手が軽く振られると、侍従が大きな籠を持って現れた。
「とくと見るが良い」

 掛けられた布をそっと持ち上げて、ハルパゴスは中を見た。流石に表情には出ぬものの、青ざめた寵臣の顔を見て王子は唇を歪めた。
「美味かったか?」
「はい」
 布を元に戻して王子を見つめる目からは、感情が伺えない。
「こちらを、自宅に持ち帰っても宜しゅうございますか?」
 王子は「ふむ」と軽く応えた。ハルパゴスは、表情を見られぬよう、深く主に向かって頭を垂れた。籠の中身、それはハルパゴスが先刻別れたばかりの愛息の頭部と四肢だったのである。血のこびりついた額は既に冷たく、先程まで星の輝きを宿していた目は見開かれて、もはや虚ろな光を映すばかりであった。王子アステュアゲスは、主人の命令をその意図通りに正確に遂行しなかった彼ハルパゴスを、許してはいなかったのである。彼は息子の亡骸の欠片を自宅に持ち帰り、泣き崩れる妻と二人で、愛息を地中深く鄭重に葬った。
 心の奥深く、王子アステュアゲスへの復讐を誓って。

 君主である者が臣下の子をその父親に食らわせるという話は、古代中国の殷周革命を描いた奇書「封神演義」に登場する。史実に攻撃を受けて篭城した城市で民衆が飢え、死んだ子を取り替えて食すというエピソードがある。何れにしても陰惨を極めた話と言えるだろう。人肉を禁忌としつつも、食わねば生き長らえることが出来ぬという状況は、飢餓に限ったことではない。しかし一時的にでもそれを受け入れた側は、自分を追いやったものを憎むことでしか生きられぬかも知れぬ。それが戦乱であれ、君主であれ。

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