第一章イオニアの華

四、スキュティア遠征




 ダレイオスは遠征の準備に余念がない日々を送っていた。四方へ使節を送り、それぞれの国へ兵糧や軍隊、艦船の拠出を命じている。その様を横目に見ながら声を掛けてきた人物が居た。
「陛下」
 人柄をしのばせるような控えめで良く響く低音である。パピルスの書類に目を落としていたペルシア王ダレイオスは、ふと顔をあげた。弟のアルタバノスである。壮年を迎えた弟は、文武両道を以って知られ、国の内外を問わずその見識からも一目を置かれる存在であった。
「どうした」
 声音に優しい響きがあった。弟の表情が些か堅い。労るような響きをもった言葉であった。
「スキュティアを攻撃するのは大変な困難を伴うことと存じます」
 緊張した面差しがダレイオスを見つめた。
「諌止に来たか」
 少々うんざりしたような表情で、身を深く玉座に沈める。弟が遠征を止めに来たのは今回が初めてではない。遠方でもあり非常な困難を伴うこと、そしてそれが成功に終わったとしても結果得るであろう利益の少なさを説き続けてきた。濃い色をした目の奥に灯る真摯さは、疑いようもない。弟なりに兄を思いやっての行動なのだということは勿論ダレイオスにも理解できた。弟が諌止に来る度論争になり、一旦は弟が退くのだが。アルタバノスは根気良く何度も諌止にやってくるのだった。スキュティアが遥か遠い国であることは良く知っている。しかし彼の前の王カンビュセス二世もその前の王キュロス二世も、遠征を繰り返して現在の強大な帝国を築きあげたのだ。カンビュセス二世の子ならずして国を継いだ彼には、更なる遠征をして更に強大な帝国を築きあげることが半ば義務のようなものと思えた。今ここで引き返す訳にはいかないのである。
「困難は承知だ。しかし余はそれをなさねばならぬ。アルタバノスよ、もう何も言ってくれるな。これが国を継いだ余の責務だ」
「陛下…」
 アルタバノスは掛けるべき言葉を失い、深く項垂れた。

 ダレイオスがカンビュセス二世の後を継いで王になったのは、紀元前五二二年のことである。それから九年程の間、彼は王として国を治め、それなりの功績を残してきていた。カンビュセス二世没後の混乱期を何とか乗り越え、玉座を手に入れることが叶った時、彼は王として人々を納得させるだけの材料が要ることに気づいた。キュロス二世やカンビュセス二世がやったことは何か? そう考えたダレイオスには更なる遠征と更なる領土拡大が見えた。イオニア地方(現在の小アジア西岸)は僭主という手段を使って支配下に収めた。ダレイオスの目に映った次なる獲物はスキュティアであった。

 目の前に広大な平野が広がっていた。いや、その表現は的確ではない。水面とも陸地ともつかぬ。イストロス河(同・ドナウ河)である。後世、ドナウ・デルタと呼ばれるようになるここは、平野という言葉では言い表すことが困難である。どこまでも広がる一面の葦の原と水路。湿地帯と水際まで迫った深い森、そして無数の湖沼で形成されている。水路はいりくんでまるで迷路のよう。そこに大小様々の島がいくつもあるのだ。しっかりした島のように見えても、足を下ろしてみれば忽ちに沈んでしまうような、頼りない島もある。葦の群生地でもあるこの辺り一帯は、葦の根にちょっと土がついた程度の浮島も数多くあった。風に吹かれて移動してしまうものでは、目印にも目標にも出来ぬ。絶えず変化する自然の景観は、人間の目を楽しませる為だけに存在するものではない。数多くの野生生物が生息している場所でもあった。渡り鳥や野鳥のみならず、大小の哺乳類、魚類に至るまでその種類は千を数えるかも知れぬ。右手に広がるポントス・エウクセイノス(同・黒海)に注ぎこむイストロス河は、夏の日差しを水面に映して、きらきらと輝いてみえる。気温は比較的高いが、湿度は然程でもなく、爽やかである。何より、ペルシア本国よりも日差しが柔らかい。旅をするなら最高の季節であろう。それが、血生臭いものでなければ、尚更。
 ダレイオスは振りかえって、来し方トラキアの方を見つめた。途中見かけた森では針葉樹と広葉樹があった。イストロス河を前にしたこちらでは、広葉樹の方が多いようである。何もかもがペルシアとは違うのだと改めて感慨を深くした。途中見付けた温泉に石柱を建てて自らの功績を称えてみても、大王そしてペルシアの父と呼ばれたキュロスには及ばぬ。もっと領土を広げ、数多くの民族を支配せねばならぬ。とダレイオスは思っていた。彼は、王位という名の馬に乗ったようなものであった。その馬は、凄まじい程の権力欲と支配欲の塊でもある。自ら欲して乗ったその馬は、奔馬。一度走り始めたら止まることを知らぬ、千里の馬。自ら望んで降りることが出来る人は、世に多くはない。
 スキュタイ人がメディア地方に侵入したのは、ダレイオスの時代よりはるか以前のことである。今回それを口実にしたのは、単なるいいがかりに過ぎない。しかしそれはキュロス王もやっていたことである。ならば、それをやって何が悪いのだ。といわばダレイオスは開きなおっていた。ダレイオスが踏んだ全ての場所はペルシアになるのだ。そうやって皆支配下におさめてきた。アシアも、トラキアも。次はスキュティア。やがてはマケドニアもギリシアもこの手に。そうしてこそ、キュロス王を越えることが出来るだろう。眼前に立ちはだかる、巨大な壁のような存在キュロス。いつか必ず越えてやると決めた壁であった。
 討伐軍の司令官がダレイオスに近づいてきた。
「この辺りの島は多くの兵士に渡らせては些か危険です。船橋を渡すことに致しましょう」
 落ち着いたその様子は自信に満ちている。王は「うむ」と短く肯いて、西の方を見つめた。目に映る限りは平らかで、肥沃な土地に見える。その先には山が連なっているのだと途中征服したゲタイ人の首領は答えた。勇猛果敢な首領は他のトラキア人、スキュミアダイ人、ニプサイオイ人達などが抵抗もせず易々と屈服するのを苦い思いで見つめていた人物である。ゲタイ人はトラキア人に属するが、他の部族と行動をともにせず、その正義心からペルシアと真っ向勝負を挑んだのだ。結果は知れていた。ペルシア人の多くには無謀な抵抗と見られていたが、ダレイオスはゲタイ人の首領の勇猛果敢さを好み、相談役兼案内役として傍に置くことにした。或いは王としての器量を実際以上に大きく見せたいというパフォーマンスであったかも知れない。
 三人居るというスキュティア王に、降伏を求める伝令を出したのは、その夜だった。イストロス河に架けた船橋を渡ったダレイオスは、橋を壊した後でついてこいとイオニア軍の司令官に声を掛けて出立しようとした。
「お待ち下さい」
 やや遠くから声が聞こえた。ミュティレネ部隊を指揮するコエスである。これから王が行く場所は辺境の地で、人が住む町もまばらであるから、念のために橋はそのままに残して行くようにとの献策には、抜け目なく王への賛辞もちりばめてある。ダレイオスは快い言葉に気分を良くしながら、その献策を受け容れた。元々、ポントス・エウクセイノスをぐるっと沿岸に沿って進めばやがてペルシアへ戻れるというつもりでいたし、船橋を守る船員を戦力として加えたいと思っていた。だが、コエスの献策を取れば、スキュティア遠征に多少時間が掛かったとしてもいい訳である。イオニア軍船員の戦力を加えることが出来ないのは少々残念ではあるが、それでも同数のペルシア軍兵士程の戦力は期待出来ないだろう。そう判断した王は、イオニア軍に船橋の警護を命じて、六十日間待つようにと指示を下した。紀元前五一三年のことである。

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