第一章イオニアの華

二、騾馬の王





 クルが祖父であるメディア王子アステュアゲスの招きを受けたのは十二歳の時である。馬術を学びたいと願った彼は、帰国する母と別れてメディアに残ることになった。自分が優れている武術ではあえて競わず、苦手なものについて努力を重ねていく姿は、メディア人の間でも好感を持って迎えられた。彼の朗らかな性格もまた、その助けをしていたことだろう。親しい友人も出来、馬術にも長じたところで、アンシャン王族通例の義務を果たす為帰国するようにと父王カンブージャからの遣いがクルを迎えにきた。そのときメディアと隣国リュディアとの間にちょっとしたトラブルが起っており、クルは当初出陣する祖父と同行し初陣を飾る予定であった。一転して帰国せねばならなくなったことに少年は哀しみを憶えたが、彼はメディア王家の血を引いてはいても、アンシャンの王子である。王族としての義務は果たさねばならぬ。後ろ髪をひかれる思いでクルは帰国の途についた。十五歳になっていた。

 戦場で相見えたリュディアとメディアが開戦の危機を迎えたそのとき、ミレトスのタレスが預言していた日蝕が両軍の進撃を阻み、衝突は避けられた。この時代、まだ天文学は確立されておらず、日蝕や月蝕は怪異であった。異変を怖れた両軍は兵を退くことに同意したのである。一触即発の危機は何とか回避されたが、和解の為の手段はいつの時代も大きな違いはない。政略結婚であった。王子アステュアゲスにリュディアから妃を迎えることになったのである。花嫁となるリュディア王女アリュエリスは、花婿アステュアゲスの娘アミュティスやマンダネより年下であった。彼女はリュディア王アリュアッテスの娘であり、世子(世継)クロイソスの姉妹にあたる。彼女の結婚生活が幸福なものであったか否かは知りようがないが、一つだけ言えることがある。それは、クロイソスにアンシャン(ペルシア)へ目を向けさせたのは、紛れもなく彼女の婚姻であるということである。もし、この政略結婚がなかったなら、クロイソスがアンシャンに目を向けるのは、もう少し後になったかも知れぬ。
 アステュアゲスの娘で先に出たアミュティスも同盟の為の政略結婚をしているが、リュディアとメディアの調停役を演じたのはそのアミュティスの夫であるカルデア(新バビロニア)王ネブカドネザル二世であった。調停の翌年である紀元前五八四年、アステュアゲスの父王キュアクサレスは没し王子であった彼が王位についた。余談だが、クルは後年複数の妃を娶ったとされている。その婚姻それぞれの詳細な年代は不明だが、うち一人はクルの母マンダネの姉妹である女性であったという。彼の妃として記録に残っている、恐らく唯一の名前はカッサンダネである。これでもしアステュアゲス王とアリュエリス王女との間の娘がカッサンダネであれば、この上なくドラマティックな展開と言えるだろうが。残念ながらカッサンダネはアケメネス家の出身であるパルナスペスの娘であることが判明している。だが、クルの妻の一人がリュディア王女の娘であったなら。クルはそれを理由としてリュディア王家の王位継承権を求め得る可能性があったことになる。

 アンシャンへ帰ったクルは、メディア風に贅沢を憶え豊かな生活に染まっているのではという周囲の危惧を見事にはねかえした。「邯鄲の歩」という諺があるが、クルは元の歩みも忘れてはいなかったようである。彼は後年理想的な君主として名を残すことになるが、多くの文化を学んだが故にそれぞれの文化を尊重することをも学べたのかも知れぬ。非征服民に対して寛大で、概ねはその旧態のままとした。これはその後の帝国運営の基礎となっているが、文化や宗教、習慣などを強要する場合、強要された側は激しい抵抗を行うことが火を見るより明らかであるし、強要する側にも多大なエネルギーが必須となる。それだけのエネルギーを維持することは難しいだろう。彼はエネルギーの効率的な使い方というものを良く理解していたのかも知れぬ。
 クルはアンシャンでは槍術と弓術の名手であった。アンシャンを離れていた数年の間も勿論稽古は欠かさず続けていたが、現在はそれに騎馬の技術も加わっている。彼はあっというまに郷里の同世代の少年達の羨望の的になっていた。物惜しみをせず、明るく冗談好きな性格もまた、彼らの心を捉えたようである。
 まっすぐに聡明に育った少年の姿に父王カンブージャは喜びの念を憶える一方で、微かな危惧をも抱いた。一個の人間としては聡明で明るく、素直で闊達が望ましい。しかし王というものはそれだけではいかぬ。王とは民を守り国を富まさねばならぬ存在の名前である。一夜、父王は息子を呼び細々とした注意を与えた。
「神々への祈願を怠らず、与えられる予兆を見逃したり見誤ることのないよう、またその扱いに困ることのないようにせねばならぬ」
 それから、神の恩寵を受けるために必要な努力を怠ってはならぬと付け加えた。弓を引いたこともない者が弓の名人に勝てることはありえない。「天は自ら助くる者を助く」という。努力せぬ者にその恩寵を与えることはないのだ。父はまた、他の様々なことについても一つひとつに丁寧な注意を与えた。それは、軍隊を指揮する上で必要であり、また国を経営する者として必要なことであった。部下を強制させずに喜んで服従させ、かつ不満を抱かせぬように配慮すること。味方に対しては徹底的に誠実で公正な人であり、法を守る人であること。敵に対しては常に優位にたち、彼等に災厄をもたらすように悪事を学ぶこと。時としてそれが効力を発揮するなら嘘や方便をも厭わぬこと。友人達にするべきことと、敵対者にするべきことを弁えるように。と。王として必要な公正さを既にクルは十分に学んでいた。これから少年に必要なものは、敵としての不誠実さといえた。
「素直なことは悪いことではない。ただ、一国の主としてそれが裏目に出る場合、民に犠牲を強いることになりかねぬ。民あっての国。そして民あっての王だ。地位には責任が伴う。我らはそれを忘れてはならぬのだ」
「今まで教えて下さった事と逆のことを学べとおっしゃるのですね?」
「そうだ。一人のアンシャンの男として生きるだけなら、今まで教えたことを反芻して、それを踏み外さぬよう生きれば良い。しかし王というものはそうはいかぬ」
 諭すような父の口調は、いつもの優しさや穏やかさよりも厳しさが見え隠れしていた。
「我らが狩猟を行うのは、戦いを学ぶ為だ。お前は獣の動きを見張り、その行動や性質を調べて味方を要所に配置するな? 罠を張った場所へ獲物を追いませて、狩る。勿論追い込む味方の存在と数、それぞれの速度についても、予め獣の性質を知悉しておらねば、上手く指揮することは出来ぬ。それは全て戦う為の技術だ」
 そう言い切る父の顔に、少年は「王」を見ていた。それは、クルが手本とし、規範とする存在だった。
 そして、人々を従わせるためにクルが学ぶべきことについて、カンブージャは噛んで含めるように言い聞かせた。聡明だと思い込ませることは、いずれ化けの皮を剥がされる危険を孕む。真に聡明な人になれ。と父は息子に語りかけた。
 空は深い夜に包まれている。満天の星が一組の父子を静かに見下ろしていた。

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