第一章イオニアの華

二、騾馬の王





 リュディアという名の王国は小アジア沿岸にあり、その首都はサルディスである。豊かな国として近隣に知られたこの国の主はヘラクレスの末裔を名乗っており、その後裔カンダウレスは自分の妻を盲愛していた。閨の中のことなど、たとえ王といえども他の者に漏らしてはならぬものだが、彼は熱愛のあまり箍が外れかけていたのかも知れぬ。
「ギュゲスよ。妻は世界最高の美女でな。その肌の肌理の濃やかさと瑞々しさと言ったら、もう触れた途端にしっとりと掌に馴染んできて…」
 口の端から涎が滴り落ちんばかりのその様子を、辟易したように眺めつつもギュゲスと呼ばれた男は臣下としての節度を守りながら王の機嫌を損ねぬよう努力していた。
「はい、この国の娘は誰も皆お妃様のお美しさに倣おうと…」
 適度に相槌を打ちつつ話題から逃れたいと望むのだが、王はギュゲスの迷惑そうな様子には気づいた様子がない。近習の中でも特に気に入りであるこの男には、普段から重要なことも打ちあけてはいたが、この日は些か常軌を逸していた。
「気のない返事を。よし、ならばお前に妃が衣を脱いだところを見せてやろうではないか。儂の言葉が真実であることを教えてつかわそう」
 正気とも思えぬ発言に慌てたのは臣下として当然だろう。
「な、何を仰せでございますか。お妃様が世界一お美しい方であることは、お姿を拝したことのある者なら稚い子供でも判ることでございませぬか」
 真っ赤になっているギュゲスに悪戯心を刺激されたか、王は完全にその気になっていた。
「人は目程には耳を信じぬというしのう」
「分別ある国主のお言葉とも思えませぬ。尊いお妃様のそのようなお姿を臣下の私が覗き見るなどと、ご無体をお求め下さいますな」
 我が身にかかる災難を思って、ギュゲスは既に青ざめかけている。
「何、妃がお前に気付かぬようにしておいてやるから、安心して見るが良い」
 そのような太鼓判を押されましても、という溜息交じりの嘆願はあっさりとはねのけられた。かくして、彼は望まずして「世界一の美女」の全裸を覗き見る運命に恵まれたのである。
 その日、王は寝室にギュゲスを伴った。予めの段取り通りに隠れはしたものの、恐れ多いという気持ちばかりが彼の心を重くした。しかし王命に逆らうことも出来ぬ。逆らえば最悪の場合は死が待っているからである。暫くして妃が入ってくるのが彼の目に映った。
 衝立の後ろに隠れ身を竦ませていると、妃が一枚ずつ衣を脱いでいるような衣擦れの音が密やかに響いた。脱ぐ毎にそれを寝台の傍にある椅子の上に畳んでいく律義さは、或いは王の欲望を掻き立てるために計算された行動かも知れない。王は既に妃の次第に露わになっていく肌に意識を奪われているようで、自ら引き込んだ近習の存在を最早忘れているようである。焦るような息遣いが響く。ギュゲスは極力妃の方を見ないように努力してはいたものの、王に明日聞かれたらどう答えるべきかと考えているうち、ついそちらの方に視線が行ってしまった。それは、彼の運命の分かれ道だったのである。
 暗闇の中に、青白い熾が彼を捉え、その凄まじさにギュゲスは身を震わせた。それは見られていることに気づいた、妃の射るような視線であった。一瞬の間だけ。見られた女と見ていた男の視線が絡み合い…、彼女は何事もなかったかのように王の隣にその一糸まとわぬしなやかな体を横たえた。王は待ちかねたように細くくびれた腰を抱き寄せ、もどかしげに妃に口付けを繰り返す。
「世界一の美女だ。お前は」
 酔ったような王の囁き声を耳元に浴びながら、妃は挑発的な瞳で大胆に体をひらき、王の腰に自らの足を絡ませて悩ましげに身をくねらせた。白い二の腕を夫の首筋に投げかける。豊満な乳房はその小さくはない掌で覆ってもまだ全てを隠しおおせることは出来ぬ。吸い付くような感触を楽しみながら、男が性急で濃厚な愛撫を繰り返すのを、冷ややかな切れ長の目が見つめている。ギュゲスは目が合ったように感じたのは錯覚だったのだ、と自分に言い聞かせながらその場を遁走した。足音を立てぬように急いで宮殿の出口まで来ると、それからは全力疾走した。自宅の前でようやく大きな息を一つ吐く。扉を開けると、明るい微笑みが待っていた。
「あなた」
 隣の子供には構わず、ギュゲスは妻に激しい接吻を浴びせた。彼女はいつもの優しい夫とは違う性急な行動に戸惑いはしたものの、それを拒みはしなかった。寝室へ入ると焦れたように衣を脱ぎ捨てたギュゲスは、先程見た青白い熾が瞼から消えることを願いながら、妻の中に溺れて行った。

 翌朝、まだ早い時間にとんとん。と扉を叩く音が響いた。
「ギュゲス殿、お妃様がお召しでございます」
 妃の腹心である筆頭女官がいつものように彼を呼びに来た。その後ろに従って行き、宮殿の一室に静かに座っている妃の姿を見た時、彼はその異様さに気づいた。いつもなら傍に侍っている筈の女官達の姿がない。そして、彼を呼びにきた筆頭女官もまた、静かに隣室へと姿を消してしまっていたのである。彼は不安に包まれながらも静かに妃の前に跪いた。
「よう来たの、ギュゲス。お前に道を二つ与えようではないか。どちらを選択するもお前の自由」
 そう言って嫣然と微笑む妃には、毒で出来た化粧粉がふりかけられているかのように見えた。彼女の言葉にギュゲスは暫時呆然とし、やがて嘆願もしたが。前夜同じように嘆願したときと同様、それは受け容れられることはなかった。彼は自らに降りかかった運命を呪ったが、引き返すことは出来そうになかった。
「妾の肌を覗き見るという不埒な事をしでかしたお前が死ぬか、それを企んだ王が死ぬか、二つに一つじゃ」
 冷徹に言い放つ妃は、己の受けた恥辱を雪ぐ手段としてそれを選んだのである。跪くギュゲスに近づき、その耳元に熱い吐息を注ぎ込んで、その円やかな胸元に彼の手を導く。
「お前の妻はそのままにおいてよい。妾を手に入れ、この国を治めるのじゃ」
 赤い唇からちらちらと覗く舌の先は二つに割れていなかったか。漂う芳香には媚薬でも混じっていたのか。彼はいつのまにか喘ぎながらその場に女を押し倒し、冷たい床の上で昨夜の王よりも性急な愛撫を加えていた。妃はギュゲスの動きに応えるようにゆっくりと目を閉じ、やがてその快楽の波に豊かな裸身を委ねた。

 その夜、王は近習ギュゲスによって弑された。

 翌朝、簒奪の話を知って驚愕しカンダウレス王の横死に憤激したリュディア人は、当然ながら簒奪者ギュゲスに対して武装蜂起した。ギュゲスとて王位が欲しくて弑逆の大罪を犯した訳ではない。ただ死にたくなかっただけである。両者和解のきっかけになったのは、デルフォイの神託であった。もし神託がギュゲスの王位を認めたならばそれを受け容れること、さもなくばギュゲスはカンダウレス王の血筋に王位を返還することという条件は両者にとって納得の行くものであった。デルフォイの巫女はギュゲスの王位を認めたが、その神託に「騾馬がメディアの王になったなら、ヘルモス河に沿って逃れ止まること勿れ」との一文が付されていることに気を止めた者は居なかった。
 命拾いをしたギュゲスはデルフォイに膨大な財宝を献納し、それは奉納者に因んで「ギュゲスの宝(ギュガダス)」と呼ばれる。この後、彼の子孫が王位を継ぐことになった。

 彼の孫に当るサデュアッテスは、ミレトスへの進出で知られている。ギュゲス自身在世中ミレトスとスミュルナへ軍を進めたが、祖父を遥かに凌ぐ業績を残したといえるだろう。その子アリュアッテスは父王からその戦いを引き継ぎ、非常な熱意を以ってこれに当ったが、結果的に陥落させる事は叶わなかった。
 リュディア最盛期の王は、アリュアッテスの子クロイソスである。伝説ではアテナイの賢人ソロンと会談したと伝えられているが、二人の生没年や活動時期などを考慮すると少々無理があるから、それは恐らく後世の作り話であろう。その治世に国勢は頂点に達し、小アジアのギリシア諸族をはじめとしてハリュス河以西の殆どがリュディアの版図に加わった。彼は更なる領土拡大を望んでいたようだ。その即位は紀元前五六〇年のこととされている。釈迦誕生は紀元前五六三年頃(異説あり)、孔子誕生は紀元前五五一年頃である。

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