五月雨
一
「今年はよくよく空ッ梅雨だねぇ」
五月雨のない皐月なんて、って旦那はぶつぶつ言いなさる。それはそれで珍しいんだけどよ。何か、じいさんが愚痴ってるみてぇだな。とおいらは思ったね。本当に雨雲一つ見当たらねぇんだけど、おいらはやっぱり晴れてる方がなぁ。
「何を馬鹿なことをお言いだい、桜吉」
旦那がぴしゃり。と言ったまでは良かったんだけどよ。傾城座りをされちゃ威厳もへったくれもありゃしねぇ。
「この時期の雨というものが、如何に大切か、人間は良く知らなきゃあいけないよ。梅雨の雨はだね、穀物を育てる為に必要な水分を天が下さっているのだよ。雨が降らないとなると、今年の夏は大変なことに…」
「でも旦那、お天道様がないと果物がって先だっては…」
「それはそれ、これはこれ」
扇子をぴしゃり。と閉じなさる。お稽古ごとの師匠様みてえだよな、本当に。
「夏の時期のお天道様も勿論必要だ。例えば桃や梨はお天道様の光が十分に当たらないと甘くならない。実が生るのは文月だが、卯月皐月にもうその歳の出来ばえが決まってしまうのだよ。しかし五月雨の雨がなければ稲がちゃんと育たない。雨も光も両方が必要なのだよ。人にも植物にも」
「へえ」
そんな早くに果実の出来ばえが決まっちまうのか。とおいらは思ったんだけどよ。そういやどこだったかのお偉い方は夏が来る前にその歳に飢饉が来るって判って…って話をいつだったか旦那に聞いたっけなぁ。えれえお人がいるもんだよな。
「しかし。今年の梅雨は何か変だねぇ」
その時の旦那の顔が何か楽しそうに見えたのは、おいらの気のせいだった…ということにしときてぇんだけどよ。
河太郎さんが店に来るこたぁ滅多にねえんだけどよ。河童の姿のままで来ちゃあ旦那に迷惑がかかるっていうんで、来る時ゃ、人の姿に身を変えて来るんだよな。皿の水は大丈夫かなぁっておいらはいつも思うんだけどよ。町人髷の鬘の下に水を浸した紙を挟んでるからね。ってひょいと拝ませてくれた日にゃあ。そりゃもうえらい大騒ぎになるところでよ。旦那がす、って傘を差しかけて、往来からは見えねえようにしてなきゃ、きっとどこかの岡っ引きの親分が飛んできたに違えねえぜ。
その日は朝がまだ早い時分で。そう、明け六つくれぇだったっけ。おいらは店先を掃いていたんだけどよ。そこにひょっこり。って町人姿のお人が現れなすったんでい。おいらは撒こうとしてた水をうっかりそのお人にかけちまって、慌てて「大丈夫ですかい? すいやせん」って声を掛けたらよ。流石に魂消たね。「おう、驚かせてすまねぇな、桜の。旦那はいるかい?」って言ってくれたのにはちぃとほっとしたけどよ。見る見るうちに変化しなすってよ。いや、これは変化してた姿が元の姿に戻った訳だから、変化が解けた。っつーのがいいのかねぇ。四六の蝦蟇、とかいうじゃねぇか? あの置き物みてぇな、こう、どっしりした蛙でよ。その肩の辺りにゃ、何でか知らねぇけど、市松人形がちょこん。って座って居なさる。五歳ばかりの子供くれえの背丈の、そりゃあ良く出来た人形でよ。おいら、思わず見惚れそうになっちまったんだけどよ。この蛙の旦那を店先に待たせておいちゃ、何時近所の人に見つかってどんな騒ぎになるか判りゃしねぇ。おいらは慌てて店ん中に入って貰ってよ。旦那を呼びに行ったんでい。
「この方はね、あきちさんとおっしゃるんだよ」
「先程は大変失礼致しやした。おいらは桜吉と申しやす」
旦那の部屋で、改めてご挨拶させて頂いたのは、小半時も後だったか。いつの間にかまた変化しなすっていて、立派な商人姿でよ。おいら、さっきのは見間違いかと思ったね。
「おう、一文字違えだ、宜しくな」
何かよ、こう男くせぇ感じの、いい表情しなさるんだよなぁ。うちの旦那が花魁顔負けの艶っぽいお人だからよ。おいらは江戸っ子らしい気風の、こういうお人に憧れちまうんだよなぁ。
「へぇ、あきちの旦那はどんな字をお書きになるんで?」
おいらがそう聞いちまったのは、「亜吉」とか「阿吉」としか思い付かなかったからだけどよ。旦那がそこで腹ぁ抱えて笑い始めちまってなぁ。おいら何か悪りぃ事訊いちまったかな。って思いかけてたらよ。
「蛙の妖怪なんだから、蛙の『あ』に吉よ。決まっているじゃない」
水を打ったような、というのかねぇ。涼しげな声がどこからともなく聞こえてきて、おいらはまた魂消ちまったんでぃ。そう、蛙吉の旦那の肩にちょこんと座っていなさったあの市松人形、それがいきなり喋ったんでい。
「に、に、人形が!」
おいらは腰を抜かしちまってよ。確かにまるで生きてるみてぇな市松人形だとは思ったさ。でも、本当に生きていなさるなんて、誰が思うんでい。
「私は、あい。蛙の『あ』に井戸の『い』で蛙井、よ」
表情一つ変えねぇまんま、する。と蛙吉の旦那の肩から降りてきなすったときにゃ、おいら、目の前が真っ白になっちまったね。
空ッ梅雨の、酷え時に、蛙吉の旦那と、お蛙井お嬢さんが、わざわざ棲家を出て来なすったのには、もちろん訳ありでよ。旦那は二人の話をじっと黙り込んで聞いていなすった。
「なぁるほど。じゃ、お蛙井ちゃんの幼馴染の雨童が、行方知れずになっていると」
うちの旦那が深く肯いてよ。
「おう、それで今年の梅雨が空ッ梅雨になっちまった、ってぇ訳でい」
「お蛙井ちゃんには心あたりは……?」
表情はずーっと、能面みてえでかわらねぇけどよ。何かこう、しょげてるって感じがする顔色でよ。そうだよなぁ。親しくしてた友達がいきなり神隠しにあっちゃ、喜んではいられねぇよな。しかし人間の子供が神隠しに遭うって話は聞いたことがあったけどよ。妖怪でも遭っちまうたぁ吃驚だぜ。
「こら、桜吉。失礼なことを考えちゃいけないよ」
「へぇっ」
おいら、今考えてること、口に出してはいねぇよな?
「言わなくたって、お前さんの考えていることなんざ、ぜぇんぶお見通しだよ。妖怪だって人間と同じさ。怪我もするし、病気もする。下手をすりゃ死んじまうことだってあるのさ。ましてや神隠しなんて」
「じゃ、じゃあ」
「当然あるさ。だから、お前も、相手が誰であろうと、何か悪いことをしてしまったときには、きちんと謝りなさい。お前に誠意があるなら、相手が人だろうと妖怪だろうと、きっと判っておくれだろうよ」
今のは…、多分旦那、蛙吉さんやお蛙井お嬢さんに謝りなさいってことだよな。
「蛙吉の旦那、お蛙井お嬢さん、申し訳ござんせん」
蛙吉の旦那はにやり。と笑ってくんなすったけどよ。お蛙井お嬢さんはやっぱり能面みてぇで、おいらには良く判らなかったんだけどよ。でも怒ってはいねえような気がしたんだよな。
「最後に雨童の姿を見たのは何時だったか、そう、確か紫陽花が咲き始めた頃だった、って話だったよな?」
お蛙井お嬢さんはこくん。って首を縦に振ってよ。
「一緒に、五月雨の一番露を浴びる約束をしてた」
「五月雨の、一番露?」
確か、若え娘さんの間で流行っているまじないだって、おさきさんが言ってた気がしてよ。おいらはうっかり訊き返しちまってよ。
「知ってんのか、桜吉」
「知ってる、って程じゃござんせんが。おさきさんが、若え娘さんの間で、流行っているって」
それを浴びると、想い人に心が通じるっていう話だったんだよなぁ。でもよ。どれが五月雨の一番露なのかなんて、判らねぇよなぁ。あれ、でもよ。そうなると、お蛙井お嬢さんとその雨童には、想い人が居たってことにならねぇか?
「お蛙井、野暮なことは訊かねぇよ。それから後、連絡がとれねぇっていうんだな?」
こくん。って肯いてる姿見てるとよ。本当に市松人形みてえだぜ。
「雨童の棲家も、良く行くところも、探したけど居ない。棲家でも暫く待ったけど、帰って来なかった」
「あ」
旦那が、唐突に声を上げたんだけどよ。参ったね、傾城座りしていなさる。
「待ったかい」
商人のなりで現れたのは河太郎さんでよ。それまでちぃとも気配がなかったんで、おいらはぶったまげたね。でもおいら以上に驚いていなさる人がいてよ。お蛙井お嬢さんは声も無くて慌てて蛙吉さんの肩に乗っかっていなさる。吃驚しなさっているせいか、心もち、さっきよりちぃっと赤味が射して見えるんだよなぁ。
「雨童が、ここ半月ばかり行方知れずって聞いたかい」
旦那の切れ長の目尻がよ。やたらと色っぽくてよ。おいら、思わず眩暈がしちまったね。