五月雨
二
「ああ、空ッ梅雨だよなって蛍十郎さんと話しててよ。どうも雨童がどっかいっちまったらしいなって誰かが言ってたぜってよ」
旦那はお江戸の小町娘が袖噛んで悔しがるんじゃねぇかって思っちまうようなそりゃあ色っぺえ顔つきでよ。
「河太郎さん、雨童が棲家にしてたあたりに、怪しい気配はなかったかい」
河太郎さんはちいっと首をひねって。
「そういや、あのあたりは蛇野郎の縄張りだったな」
ふん、って鼻から息を出していなさる。もしかしたら、旦那と知り合ったきっかけの水蛇妖怪ってことかねぇ。
「ご近所さんじゃないか。そりゃあ仲良くしろとまでは言わないけれど、最低限の付き合いは、ねえ」
「そういや。ここ暫くあいつも見かけねぇな。でも匂いは強くなってねぇから、死んじゃいめえ」
蛇の妖怪って、死んだ後の方が匂いが残るもんなんですかい、ってこそっと訊いてみたらよ。「怨念が篭ってるやつぁ、違うのさ。玉の緒が切れそうになる瞬間に、ぶわーって、すんげぇ匂いが辺りに立ち込めて。その後がこれまた大変なんだよなぁ」って河太郎さんはいうんだよなぁ。やっぱ、執念深いやつは違うのかねぇ。っとっとっと。こんなこと、旦那に聞こえたら、また怒られちまうぜ。
「河太郎さん、手がかりらしきものが全然見つからなくてねぇ。申し訳ないが、ご機嫌伺いに行ってきておくれでないかい。ひょっとすると、ひょっとするかも知れないからねぇ」
途端に河太郎さんがぴた。って止まってよ。おいら何事かと思ったんだけどよ。
「柚子蕎麦。最中。落雁。饅頭。濁酒」
あんまり唐突にそれだけぽつり。って河太郎さんが言うもんだからよ。何ですかい、それって聞いたんだけどよ。ちっと小声だったもんだから、河太郎さんの耳には届かなかったらしいや。
「旦那」
「用意しておこうじゃないか」
「柚子蕎麦は熱々の」
河太郎さんは重ねてそう言って、す。って立ち上がったんだけどよ。五つの内三つが甘いもんって、江戸っ子としておいらどうかなと思っちまうんだよなあ。
暫くのあいだ、蛙吉の旦那とお蛙井お嬢さんは佐倉屋に居候することになってよ。おいらは仕事の合間に離れに様子を見に行ってたんだけどよ。人の目があるからってえんで、二人とも人の姿のままでいなさる。旦那は変化を解いても大丈夫なようにって離れを貸していなさるんだけどよ。蛙吉の旦那もお蛙井お嬢さんもきっちりとしていなさるよなぁ。人と付き合う上での妖怪の仁義だ、って蛙吉の旦那は言うんだけどよ。誰にでも出来ることじゃねぇよな。
「蛙吉の旦那。一つ伺ってみてぇことがあるんですが。おいらが物知らずで失礼なことをお尋ねしてたらごめんなせえまし」
「おう、なんでえ」
「変化なすってるのは、大変じゃねぇんですか? 河太郎さんだって店に来なさるまでは変化なすってやすけど、でも中で旦那と二人だけになったら元の河童に戻っていなさる。それは、河童の姿の方が楽だからとおいらは思っておりやした。でも蛙吉の旦那はここではずっと商人姿のままでいなさる。それはどーいう訳なんですかい」
蛙吉の旦那はちいと目を見開いてよ。それから、目を細めておいらをじぃーっと見るんでい。おいら、失礼なこと訊いちまったのかねぇ。
「お前えさん、いい子だねぇ」
「へっ?」
「いや、大した事じゃねぇよ。ここは佐倉屋の旦那の住居で、俺たちゃあ、居候だ。客ならば変化を解くのも許されるかも知れねぇ。でも居候はよ。家主の迷惑になるこたぁやっちゃいけねえ。それは俺たちの仁義ってもんさ。そりゃあ人の形してるのはちいと辛えけどよ。だけど、それは俺らの都合であって、家主には関係ねぇ。確かに離れで町の人たちが来るこたぁまずねえけどよ。だからって、旦那の好意にばかり甘えてちゃあいけねえだろ。それが筋ってもんじゃねぇか」
何だか判ったような判らねぇような、煙にでも巻かれたような気がしたけどよ。でも蛙吉の旦那の筋の通し方って、おいらは好きだなぁ。
「桜吉ちゃん、桜吉ちゃん」
庭先から遠慮がちなおさきさんの声がしてよ。おいらは、蛙吉の旦那の前を失礼して、障子をすい。って開けたんだけどよ。客人のご迷惑にならねぇように、おさきさんは気を遣っていたらしいんだよな。障子の隙間から見えた蛙吉の旦那の商人姿が目に入ったらしくって、おさきさんはほっとしたような顔をしておいらに結び文を渡してくれたんだけどよ。
「桜吉ちゃんにって、小さな子供が持ってきたの。…急いでっていうもんだからお客様の前で失礼だとは思ったんだけど」
「ありがとうございやす」
おさきさんに頭を下げて、おいらは結び文を広げてみたんだけどよ。どえらく達筆な手蹟で、蛙吉の旦那とお蛙井お嬢さんを連れて河太郎さんの住居に急いで来るようにって書いてあったんでい。最後に「蛍」って文字があったんだけどよ。これって、もしかして…。
「蛍十郎さん、だな」
何時の間にか部屋の傍近くまで来てた旦那が覗き込むように見ていなさった。
「河太郎さんか、蛍十郎さんが手懸りを見つけたんだろうな。二人とも、行ってみるかい?」
「おうよ」
蛙吉の旦那は江戸っ子らしくってよ。おうよ、って。恰好いいじゃねぇか! やっぱ江戸っ子はこうでなくっちゃなんねぇよな。お蛙井お嬢さんといえば、ただ黙って蛙吉の旦那の肩にするすると登って、ちょこんと座っていなさる。喋らねぇと本当、市松人形みてえだぜ。
「文面は落ち着いちゃあいるが、わざわざ文を寄越す程のことだ。何かあったのかも知れねぇ」
おいらはちっと不安になっちまったけどよ。でも、そんなこた、蛙吉の旦那やお蛙井お嬢さんの前で言えねぇよな。
河太郎さんの住居は川のすぐ傍にある洞穴でよ。うちの旦那と一緒に何度か行ったことがあるんだけどよ。今日はそのすぐ傍に河太郎さんが待っていなすった。
「文、届いたみてえだな」
「蛍十郎さんはどうしなすったんで?」
だって手紙は蛍十郎さんからだったよな?
「ああ」
ふっと思いついたみてぇに、にっこり旦那が笑っていなさる。
「河太郎さん、そっちの腕はからっきしだからねぇ」
ってことは。蛍十郎さん、代書屋だったってことかい。これは驚きだねぇ。ま、あれだけの手蹟じゃ、肯けるってもんだけどよ。
「そんなことより。お蛙井ちゃん、だったっけ。佐倉屋の旦那の読みが当たってたんでい」
「え」
突然河太郎さんがそう言いなすったんだけどよ。河太郎さんの話によりゃあ、雨童が蛇妖怪の住居に閉じ込められているらしいんだよな。
「この辺りに蛍十郎さんの手下が居るから、手伝って貰って判ったんだけどよ。どうも蛇野郎、お蛙井ちゃんをつけ狙っていたらしいんだよな」
それでお蛙井お嬢さんと仲良しの雨童に目をつけて、誘き出させようとした、ってことらしいんだけどよ。
「お蛙井ちゃん。雨童を助けたいかい?」
市松人形みてえな顔の、能面みてえな表情はそのままだけどよ。すー。って涙が一滴落ちてきたのには流石においらも驚いたね。朝靄が深けえ頃の、露草に残った朝露みてぇにきらきらしていてよ。お蛙井お嬢さんはしっかりと肯いて、「助けたい」って答えたんだよな。でも蛇は蛙の天敵じゃねぇか?
それから雨童を助ける算段をしてたんだけどよ。でも、もう必要なかったみてえだ。蛇妖怪は、雨童の根気に打たれてよ。おいらたちが蛇妖怪の住居に辿りついた時にゃ、雨童に頭下げてたんでい。蛇妖怪がなんでお蛙井お嬢さんを狙ったかは結局判らず終いだったけどよ。雨童は無事だったし、お蛙井お嬢さんには手を出さねぇ約束をしたから、おいらはそれでいいと思ってんだけどよ。やっと自由になった雨童とお蛙井お嬢さんがお互いに見つめあっている姿は、そりゃあ微笑ましいもんだったさ。抱き合って泣いてる様はそりゃあ感動的だって言ったって罰は当たらねぇさ。土砂降りになるまではよ。二人が揃ったところで、空ッ梅雨が終わっちまって、とんでもねぇ梅雨が始まっちまってよ。おいら、いきなり増水しちまった川に流されちまうかと思ったね。
「二人とも」
旦那がそっと雨童とお蛙井お嬢さんに声を掛けてなかったら、きっとお江戸が洪水になっちまったに違えねえよ。
「再会出来て嬉しいのは判っているが、ひと月分の雨を急に降らせては、地盤が緩んで堤が崩れて、お江戸市中だけでなくいろんなところが大変なことになってしまう。雨童の仕事の量は決まっているだろうけど、もう少しゆっくり降らせておくれでないかい」
雨童は涙交じりの顔で笑ってよ。
「はい!」
それから、小糠雨になったんだよなぁ。ああ、そういえばいつか旦那が「植物が喜ぶような雨だ」って教えてくれたっけ。肌にも土にも葉っぱにも、そーっと染み入るような雨だよって、なぁ。
それから暫くしてからのことだけどよ。河太郎さんのところに、時々お蛙井お嬢さんが雨童と一緒に来るようになったらしいんだよなぁ。そういえばお蛙井お嬢さんと雨童は想い人がいなさるって話だったような気がするんだけどよ。でも、まさかなぁ。いや、待てよ。確か、河太郎さんがひょっこりと現れたとき、お蛙井お嬢さん、頬を染めていなすったような気がするんだよなぁ。いや、でもまさか、なぁ。