九十九の琵琶



 夏の大事な仕事っていったら、やっぱりよ、これだよな。虫干し。秋も近くなってきた晴れ続きの土用の頃に干すんだけどよ。正直、大暑を過ぎたばっかりだからよ。ばたばた働いてると汗がじんわり滲んできてよ。そのうちだらだら遠慮なく流れてくるんだよな。でも、湿気でいろんな道具を駄目にしちまったら、それこそもったいねえじゃねーか? 道具は粗末に扱っちゃいけねーよ。ってこれは五平さんの受け売りなんだけどよ。丁寧に、大切に使ってやれば、道具も応えてくれるもんだって言うんだよな。
「ひとつ一つに、使ってきた人たちの記憶や思い出、そして歴史が詰まっているんだよ」
 小町娘も袖噛んで悔しがるんじゃねーかってくらいに艶っぽい笑顔で旦那が手に取ったのは、円い胴に細長い柄があって、細かくてきらきら光る貝殻の飾りが一面に貼ってある……楽器、だよな。細い糸が何本か柄から胴の方に張ってあって。撥がついてるんだよな。確かこの撥でこの糸を弾いて音を出す楽器だったって前に旦那に教えて貰ったような気がするんだよな。
「これは、先々代…私のひいおじい様がどなたかから預かったという品でね。存命中は引き取りに来なかったようだけれど、楽器は時々爪弾いてやらないと傷むからとひいおじい様が時折弾いていらしたんだよ。懐かしいねぇ」
 切れ長の目が懐かしそうに楽器を見ていなさるんだけどよ。虫干しを手伝ってくれてた棕櫚箒が、旦那を見て、心なしか顔……いや、箒のあたりがほんのり染まってる気がするんだよな。
「おや、棕櫚箒」
 ぎくっとした様子で棕櫚箒が逃げ出しかけたんだけどよ。
「逃げなくても良いよ」
 旦那がにっこり笑ったまま手招きしていなさるので、逃げ出しそびれたみてえだ。旦那は膝をつい、と屈めて。……その仕草がまた、花魁も敵わねえくれえに色っぽいんだけどよ。
「いつも桜吉を手伝ってくれて、ありがとうよ。これからも宜しく頼むよ」
 涼しげに笑っていなさる旦那は、きっと暑さ寒さも関係ねーんだろうなぁっておいらは思うんだよな。だって、この暑いのに涼しげな顔には汗の一滴もついていなさらねえ。
「ははは、はいっ!」
 ちょっと退き気味にしてた棕櫚箒が旦那の言葉に感動したようにはしゃいでよ。廊下を跳ねながら掃いていくんだよな。いや、掃いてくれるのはありがてえんだけどよ。それじゃ埃がたつばかりで掃除になんねーよ。
「おーい、旦那ぁ、桜吉ぃ」
 そっちを見ると、河太郎さんの姿が見えてよ。ああ、そういや蛍十郎さんのところの宴会がそろそろだって言ってたよなっておいらは思い出したんだよな。
「やあ、河太郎さん。ご無沙汰だったね」
 旦那が手に持ったままの琵琶を下ろそうとした時だったんだよな。撥が弦に触れてよ。澄んだ綺麗な音が響いたかと思うと。その琵琶は、なんと変化しちまったんだよな。
「おや」
 変化さしちまった本人はあまり驚いていなさる様子がねーんだけどよ。棕櫚箒はもちろん、河太郎さんもおいらもそりゃあ魂消たさ。
「これも九十九神、だったか」
 人の形に変化した琵琶は、絵巻物なんかで見かけるような、昔のお姫様みてえな恰好をしていなさる。色鮮やかで丁寧な刺繍の入った衣を何枚も重ねて着て。まっすぐに伸ばした艶々の黒髪が滝のように流れるさまと言ったら、語ろうと思ったって語れるものじゃねーや。
「九十九の琵琶、起こしてすまなかったね」
 脅かさないように旦那がそっと九十九の琵琶に話しかけるとよ。ちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめて扇で隠しちまうんだけどよ。今時の小町娘とは違う風情に、おいらはちっと心の臓が跳ねるような心持ちがしたんだよなあ。
「棕櫚箒は人形にはなれないが、九十九神といって、大切に使われてきた古い道具などには魂が宿るとされているのだよ。この琵琶もそういう九十九神が宿っていたのだねぇ。ひいおじい様はどなたかから預かったと言っていたが」
「えっ、ってことは棕櫚箒も神様の端くれってことになるんですかい」
 おいら何度も掃き掃除を頼んでたんだけどよ。
「そうだよ。大切にしておやり。しかしもとが箒だから、掃き掃除なんかは喜んでしてくれるだろう?」
 妖怪だと思ってたから結構平気で頼んじまってたんだけど、それは構わねーのかとおいらはちょっとばかりほっとしたんだけどよ。
「あれ、河太郎さん。どうしたんだい」
 旦那の声に振り返ってみたらよ。河太郎さんが腑抜けみてえになっちまっててよ。
「かかか、河太郎さん、一体どうなすったんで?!」
 視線の先を恐る恐る辿ってみたんだけどよ。九十九の琵琶の方を見てほけーっとした顔をしていなさる。ほんのり頬が染まって、目がぼーっと潤んで、って。ああ、なんか町娘が不意に旦那を見つけた時にする顔に似ていなさるんだよな。
「え?」
「これはこれは…。河太郎さん、恋煩いときたかい」
 旦那は切れ長の目をちっと細めてにんまりしなさる。って恋煩い? ってあの恋煩いですかい?っておいらは聞きそうになっちまったんだけどよ。「あの恋煩いもこの恋煩いもあるもんかい」と言われるのが目に見えてたからよ。それはすんでのことで口に出さずに済んだんだけどよ。
「あの…御方はどちらに」
 蚊の鳴くような、頼りなげな声がして振り向くとよ。窺うようにこちらを九十九の琵琶が見ていてよ。
「あの御方?」
 おいらはついぞんざいな物言いになっちまうんだけどよ。
「はい、わたくしの主が……」
「主のことは伺っているよ。私の曽祖父がその主様からそなたを預かったと聞いている。ただ、その後の消息については判らないのだが。この邸にあることだけはご存知な筈だから、ご存命であれば…」
 旦那がそう言いなさると、ほろり。と琵琶が涙を零してよ。朝日に輝く玉の白露ってえのはこういうものかと思ったね。だけどよ。旦那のひいおじい様と懇意にしていなすったってことは、若くても旦那よりかなり上ってことだよな。人生五十年たあ言うけどよ。うっかりするとその主様だって、この世にいねえかも知れねえよなぁ。
「主様のことを教えておくれでないかい」
 旦那が小町娘が失神しちまいそうな声でそっと囁きかけてよ。九十九の琵琶は涙をそっと拭ってにっこりと笑ったんだけどよ。花がひらいたように、ってこういうのを言うのかねぇ。
「主は…、河内の出身で琵琶法師でございました。わたくしはその家に代々伝わる琵琶で、名を巴と…」
「巴、か。美しい良い名だね。それはお前の主が?」
「はい……。主は私を連れて旅をしながら生計を立てておりましたが、ある時わたくしが変化したさまをとあるお大名に見られてしまい……」
「なるほど。そのお大名の手を逃れるためにこの邸に預けて行ったのだね」
 恥らうように染まった頬が、涙で少し赤味を増したような気がしたんだけどよ。
「佐倉屋の主人様に別の琵琶をお借りしてやり過ごし、ほとぼりが冷めたら迎えに来ると」
 そこで哀しそうな顔になったのは、主さんが別の琵琶を弾いてることを思ったからかも知れねえけどよ。年を聞けば、主さんと別れて、もう五十年以上にもなっていなさる。人ってのがどんだけ長生きしても、おいらは七十過ぎの爺さまなんてあんまり見たことねえしなあ。そういえば「古来稀なり」っていうから七十の歳のことを「古稀」と言うのだよ。っていつだったか旦那が…。
「生きていれば必ずわたくしを迎えに来て下さる筈。主はもうこの世には居ないのかも知れません。ですが」
 声を詰まらせたみてえに黙りこむ九十九の琵琶に、旦那が優しい顔を向けなすったのは、きっと慰めるためだったんだろうなあっておいらは思うんだけどよ。
「判った。きっと、お前の主を見つけてあげよう。もし、墓があればそれを」

 それから俄然張り切って動き出したのはあの時はものも言えずに聞いてただけの河太郎さんでよ。毎日妖怪仲間に聞き込みに行って、収穫があってもなくても九十九の琵琶のところへやって来ては話を聞かせてるんだよな。旦那に懸想してぼーっとしてる小町娘みてえに、うっすら頬を染めてよ。旦那も琵琶法師や骨董品屋に声を掛けていなさる。おいらもと思ったけどよ。でもおいらには旦那や河太郎さんみてえな伝手はねえから、ただ棕櫚箒と一緒に琵琶の相手をしているだけしかできねえんだけどよ。
「び、琵琶っ、琵琶!!」
 叫びながら駆け込んできたのは河太郎さんでよ。いつもの余裕のある様子が嘘みてえに泡食っていなさる。何か大事件でも起こったみてえだ。
「見つかった。見つかったんだよ。お前の主が!」
「えっ!」
 弾けるような、とでも言ったらいいのかねぇ。こんなに明るい顔の琵琶を見たのは、初めてじゃねえかなって思ったんだけどよ。その笑顔があっという間に哀しそうになっちまったのは、おいらはたまらなかったんだけどよ。見つかったのは、琵琶の主の墓でよ。迎えに来る途中で病を得て、そのまま近くの寺に引き取られたってことだったんだよな。でもこんなに儚げな姿をしていなさるのに、琵琶は意外と気丈でよ。
「主の墓参りをさせて下さいませ。そして、その寺にわたくしを……」
 梨花一枝、春、雨を帯ぶ。って頭に浮かんだのは、多分旦那のお陰だとは思うんだけどよ。旦那の顔が妙に淋しげに見えたのが、何か気に掛かっていたんだよなぁ。

 墓参りは数日後になっちまったんだけどよ。琵琶は喜んで墓に手を合わせて。その時、蜘蛛の糸が一本だけ琵琶にかかったんだけどよ。肩にそっと手が触れるみてえな、やさしい感じなんだよなあ。
「主……様? 主様!」
 はっとした様子で振り向いて、琵琶が駆け出した先には、妖怪がいたんだよな。ぼさぼさの長い髪、恐ろしげな風貌で、着物も昔の装束みてえなんだけどよ。
「その姿は……。主様、一体何が」
「琵琶……」
 咽喉から絞りだしてるみてえな低い、良く響く声は、不思議とやさしくてよ。気づくと旦那も河太郎さんも少し離れたところにいなさる。そうか、琵琶と主さんに気を遣っていなすったんだなっておいらも気づいたけどよ。だったら先に教えておいてくれても良かったんじゃねーか?
「……変わってしまったこの姿を、見られたくはなかった」
「いえ、いえ。主様。どんな姿でも、わたくしは貴方のお傍に……!」

 琵琶とその主さんが連れ立って旅に出たのはそれから暫く後のことだったんだけどよ。
「琵琶の主はね、桜吉。琵琶を取り戻したい一心で、土蜘蛛になってしまったんだよ。その姿を琵琶に見られたくなくて、ずっと彷徨っていたんだね」
 旦那がそう教えてくだすったのは、二人を見送った朝だったんだけどよ。旦那の茶を啜る様が、何とも色っぽいのはどうしたらいいのかねぇ。
「河太郎さんは琵琶に惚れていなすったんでしょう? 失恋しちまうのに、それでも会わせてやったなんて」
「流石に河太郎さんも江戸っ子だからねぇ。琵琶の気持ちを大事に思ってたことは、琵琶も主も判っていたろうよ」
 それで充分。って旦那はそっと添えるように呟いていなすったけどよ。
「でも完全に男女が逆転した組み合わせでしたね」
 ふと振り向くと、棕櫚箒だったんだけどよ。男女が逆転って、女にしか見えねえ琵琶が男で、男にしか見えねえ琵琶法師の土蜘蛛が女って……。
「あれ、琵琶が男で主が女でしたよ。気づきませんでしたか?」
 ……じゃ、河太郎さんは女にしか見えねえ琵琶に惚れていなすった訳で、ええと。いや、これは言わない方が良さそうな気がするんだよな。
「河太郎さんには、内緒だよ」
 旦那がそう言ってにっこり笑いなすってよ。片目をそっと閉じてみせたんだけどよ。なんでまた、その辺の小町娘よりもずっと色っぽく見えるのかねっておいらは不思議に思ったんだよな。
「おう!」
 いつもよりちょっと淋しそうな河太郎さんがひょっこり顔を出したのはその時でよ。おいらは慌てて笑ったんだけどよ。顔が引きつってなかったかどうかは、ちっとわからねえんだけどよ。でもまあ、河太郎さんがいつも通りになってくれたんなら、おいらはそれでいいかなって思ったんだよな。