涙姫譚



 梅雨が明けて間もなくの頃だったと思うんだけどよ。久しぶりに旦那のお供をして、蛍十郎さんのところへお邪魔することになったんだよな。蛍十郎さんはとてもどでかい蛍の妖怪なんだけどよ。気持ちがあったかっていうか、どっしりしてて、本当に大親分って感じの御仁なんだよなぁ。旦那の親友の河太郎さんとも懇意にしていなさってよ。達筆で、良く代書屋のようなこともしていなさる。河太郎さんは悪筆だからよ。旦那宛に河太郎さんからの手紙が来るときなんざ、大抵蛍十郎さんの代筆だったりするんだよな。その蛍十郎さんの仲間が今年も現れる季節になったんでい。
「蛍十郎さんにお会いするのも久々ですねぇ」
「そうだねえ」
 そうやって煙管をつい、と伸ばして見せる仕草ったら。本当に吉原の太夫とかいう姐さま方が袖噛んで悔しがりそうな色っぽさでよ。おいら、昼日中だってえことを忘れそうになっちまったぜ。
「蛍十郎さんのところに着くまでにまだ少しかかりそうだね」
 暑い盛りに小舟の上だから、水面を反射してくる日の光がちと眩しいんだけどよ。そんなことには一向お構いなしって風情で、悠々と涼しげな顔をしていなさる。扇子の一つも持っていなさるのかも知れねぇけど、旦那が汗かくとこなんざ、見たことねえ気がするよな。旦那は煙管をすぼめた唇ですっと吸って、まるくぽっかりした煙をふんわりと空に吐きだしたんだけどよ。なんでこう、無駄に艶っぽいお人なのかねぇ。
「今日に丁度良い話をしてあげよう。桜吉、今昔物語は知ってるね?」
「へえ、仏さまのありがてえお話を、震旦(この場合はインド)、天竺(この場合は中国)から本朝(日本のこと)まで集めた御本でござんすよね」
「そう、因果応報や仏さまの功徳などのお話が沢山載っている本でね。説話集というものだが、同じような説話も幾つか載っている。それより少し早く成立したと言われる日本霊異記に、全く同じ話が幾つか収録されているし、いろんな本からそういう説話を寄せ集めたものなんだね。中々に興味深い話もあるが、これからする話はそれに載っていたお話だ。間もなくお盆だけれども、お盆っていうのは、ご先祖様があの世から帰ってきて下さる日のことを言う。だが、帰ってくるのはご先祖様だけに限られている訳ではないんだ。時には親しい友や、忘れられない人であることもある。これは、そういう一例だね」

 昔、むかし。あるところに、それはそれは愛らしい女の子を持つ両親がいた。両親は商いを営んでいて、生活は中々に羽振りもよくて裕福。一人娘の女の子は可愛らしい上に利発で気立ても良く、料理裁縫も上手だったので、両親はいずれ良い婿を迎えて家を継がせるつもりでいた。この子が十四、五にもなると、ひときわ輝くような美貌に育ったから、それを聞いたあたりの家から次から次へと縁談が持ち込まれる始末。だが、娘を溺愛する両親には、どれもこれも娘には不足に思えてならない。適当に難癖をつけてはつっぱねるばかりだった。そんな折、娘の評判を聞いて是非一度でいいから会いたいと言ってきた若者があった。商人である親のあとを継いだばかりで、まだまだ未熟そのもの。それでも、お得意先の紹介とあっては、会わせない訳にもいかない。渋々ながら、両親は娘に若者を会わせることにした。ところがやってきた若者は切れ長の涼やかな眼差しとやわらかい面差しの美丈夫。そしてまた会わせてみると、まるで対の雛人形かと思える程に可愛らしい、本当に似合いの二人。それはまるで前世からの約束でもあったかのように、互いに一目で惹かれあってしまった。こんな未熟者の若造に、と最初は頑なだった両親も、本人はまだ未熟ながらも家格はそこそこ釣り合うし、同じ商売をする家柄。そして何よりも可愛い一人娘の涙ながらの願い。それも今までわがまま一つ言ったことのない娘の初めての願いを、無碍に出来る筈もなく、若い二人はやがて、晴れて夫婦となった。
 それからあっというまに時は流れて一年ほど後、仲睦まじい夫婦には当然のことだが、若く可愛らしい妻が身籠った。親夫婦も若夫婦も手放しで大喜び。勿論若い夫は今まで以上に仕事に精を出して励むようになった。そして戌の日に腹帯を巻いてから三日の後、それまで何の徴候もなかったのに、夫がぽっくり逝ってしまった。最愛の夫の急死、それも待望のやや子が授かった矢先のこととて、幸せそのものだった一家の受けた衝撃が小さいはずはない。七七四十九日が過ぎてもなお、妻は嘆きに嘆いて泣き暮らす日々を過ごしていた。お腹もどんどん大きくなるし、嘆いてばかりでは体に障る。と両親はあれこれ娘を慰めようとするが、その愛くるしかった面影はすっかり失われて、やつれ疲れた様はもう十年も一気に歳を重ねた女のようだった。そんなある夜。さめざめと泣く妻の部屋の外から、囁くような声がする。恋い焦がれた夫の懐かしい声だと妻は慌てて戸を開けた。そこには、夢にまで見た愛しい夫の姿。思わず駆け寄ろうとするが、夫の様子が少しおかしい。苦しげに眉根を寄せて、それでも妻の名を愛しげに呼んでいた。そしてどこからともなく、何とも言えない厭な匂いが漂ってくる。生臭いような、焦げるようなその匂いは、よくよく考えてみると、夫の背中の方から漂ってきているようだった。妻の表情に気づいた夫は、一層苦しげに眉を寄せて、呟くように告げた。
 ――あなたがあんまり私を恋しがってくれるものだから、地獄からやってきてしまった。怖がらせてしまって、すまない。すぐにも地獄に帰ろう。良い子を産んでおくれ
 生前、何一つ悪いことなどしていなかったやさしい夫が、地獄で寸分の休みもなく、背中の肉を炙り焼かれる責め苦を受けている。それは若い妻を恐怖に陥れた。
 ――待って。あなた、いつもやさしかったあなたが何故、地獄に?
 面やつれした妻の顔をじっと見つめて、深い溜息を一つつくと、夫は哀しげに答えた。
 ――愛着の罪だよ
 思いがけない言葉に、妻は戸惑うばかり。来世を誓った夫が地獄に落ちたのは、他ならぬ自分への愛着を断てなかった故に地獄に堕ちて、その責め苦を受けていたのだった。
 ――あなたが私を失って毎日嘆いてくれることが嬉しくて仕方なかった。地獄の責め苦は辛いが、それ以上にあなたが私を忘れないでいてくれることが、私にはただただ嬉しかった。たとえ私が来世、虫か畜生のようなつまらないものになってしまったとしても、あなたは私についてきてくれるだろうか?
 妻の心は決まっていた。愛する夫と一緒なら、と。けれどその時、四十九日の法要で、両親が亡き婿の為に呼んでくれた尊い僧侶が説いてくれた言葉が、ふと脳裏に蘇ってきた。
 ――人は、一度畜生道に堕ちれば、永劫という長い時の間、苦しまなければなりません。子の財産を勝手に使った母親が、死後子の家に牛となって生まれ変わり、その分を返すまで御仏の力によって働かされた話もあります
 自分は構わない。だが、愛する夫に地獄の責め苦の他に、そのような苦しみを与えることが出来るだろうか。
 ――あなたとなら、どこへでも参ります。けれど、あなたのお苦しみを知って、そのままではいられません
 そう言うと、はらはらと涙を零しつつ、懐剣でその艶やかなぬばたまの黒髪を惜しげもなく切った。ばさりと広がる髪は肩ほどまでしかない。それは痛々しいに違いない、と思えたが、不思議な程に妻の白い顔は可憐そのものだった。
 ――私の髪を愛でて下さったあなたのために、この髪を捧げ、ご供養致します。昼も夜も、私が生きる限り。そしてこの子も我ら夫婦の菩提を弔う僧侶に育てましょう。いつか極楽であなたと再会出来るように
 その瞬間、夫の姿が歪み、尊い仏の姿へと変わった。
 ――そなたの夫は今も地獄で責め苦を受け続けている。だが、そなたが心をこめて供養すれば、いつか地獄から逃れることも出来よう……
 若い妻の深い深い嘆きを目に止めた御仏が、夫の姿を借りて妻を諭しにきたのだった。

「それから、その若い奥様は一体どうなすったんですかい?」
「月満ちて子を産み、その子を立派な僧侶に育てあげたそうだよ。自分は尼になって、亡夫の供養のために、と生涯毎日読経を欠かさなかったそうだ」
 夫婦になった相手を大事に思うことが罪だなんて、正直言っておいらには、ちいっと納得いかねーんだけどよ。仏さまって、案外薄情なのかも知れねーなぁ。
「まあ、それだけ深すぎる程の愛情だったということなんだろうが。この話には別説があってね。二人は蛍に生まれ変わって、いつも相手のことを案じて、光を互いに届け合うのだそうだよ」
「へええ! じゃあ本当に虫に生まれ変わっても、若奥様は愛しい旦那様についていきなすったってことですかい」
「そうなるね」
 おいらにはまだそういう夫婦の愛情っていうのは良くわかんねーけどよ。でもその結末の方が、なんかちっとは嬉しいよな。虫けらって言っちまえばそれまでかも知れねーけどよ。仲良いのが一番じゃねえかって思うんだよな。
 そうこうしているうちに、蛍十郎さんの棲み処が近づいてきてよ。そのすぐ傍に、今まで気にとめたこともなかったんだけどよ。小さな石碑が見えたんだよな。そこには、「涙姫碑」って書かれてあったんだけどよ。さっき、旦那確かその若奥様の名前を、「恋しい夫を亡くして、毎日涙に暮れた涙姫」とかそんな風に言ってなすったような気がしたんだよな。いや、あれは仏さまのありがたいお話だけどよ。作り話だよな。蛍に生まれ変わったなんてよ。蛍十郎さんの棲み処の傍に、なんて。でももしかしたら。ここが蛍の棲み処だから、涙姫の石碑をわざわざ建てたのかも知れねーなぁ。涙姫様も、生まれ変わって旦那様にめぐり会えました、ってえほうが嬉しいに決まってるっておいらは思うんだけどよ。
「おー、遅かったなぁ、旦那」
 洞窟の陰から、河太郎さんの声が聞こえてきて、おいらはそっちの方を見たんだけどよ。その河太郎さんの向こうから、蛍十郎さんがゆっくりやって来なすって、「涙姫碑」の天辺をそっと撫でたんだよな。その撫で方がなんか労わるようなやさしい感じがしてよ。おいらはちょっと吃驚したんだよな。蛍十郎さんみてえな豪快なお方だったら、どん!って力いっぱい叩いていなさる気がしてたんだけどよ。蛍十郎さんも蛍の妖怪だから、さっきおいらが聞いた話を旦那か誰かから聞いてるのかも知れねーやな。
「ご無沙汰しておりやす。桜吉でさ」
 そういったら、蛍十郎さんがにっこりと笑ってよ。
「良く来たな、桜の、人の。息災で何よりだ」
 そして豪快に腹をゆすって、大声で笑いなすったら、あたりにいた蛍が一斉に空を飛んだんだよな。蛍とか蜻蛉だとかっていう虫は寿命が短けえっていうけどよ。人間の目から見れば一瞬でも、当の虫自身からすりゃ、それなりに長い時間かも知れねーよな。涙姫様は旦那様と一年ちょっとしか一緒に居れなかったけどよ。虫にとって一年ちょっとは一生分以上の時間なんだよな。涙姫様が蛍に生まれ変われなすって、恋しい旦那様と添い遂げることが出来たら、それはそれで幸せなんじゃねーかな。っておいらは思うんだけどよ。
「桜吉。置いていくよ」
「へい! すみません」
 おいらはうっかり大声をあげそうになって、ちょっとだけ声を小さくしたんだよな。勿論蛍十郎さんの棲み処で他の蛍も棲んでいなさるんだから、あまり大声上げるのも失礼だけどよ。もし涙姫様が恋しい旦那様と一緒に居たら、邪魔されたかねーんじゃねえかって気がしてよ。後ろを見ずに駆け出したんだよな。だって、逢引の邪魔なんて野暮じゃねーか。おいらは江戸っ子だからよ。そんな野暮な真似、出来ねえぜ。そのとき、旦那がおいらの方をちらっと振り向いてよ。にっこりと笑いなすったんだよな。どこかの花魁も顔負けの艶っぷりの顔で、よ。おいらは旦那に駆け寄って、「野暮なことはなしにしましょうや」って言ってみたんだけどよ。やっぱりちっと背伸びし過ぎたのかねぇ?
「そういう台詞は惚れた女のひとり二人もこさえてからお言いよ」
 軽く往なされちまったんだよな。はあ、おいらが旦那に追いつけるようになる日なんて、本当に来るのかねぇ。


作者注:今昔物語に類似説話はありますが、細かい部分が違います。是非違いをご堪能下さい。