五月雨始末記



 五月雨がおわっちまったわねえ。まああたしにゃあ縁のないもんかも知れないけどねぇ。でもやっぱり思い出すんだよお。可愛かったあの子をねぇ。
 あれは、そう。五月雨ももう終りの頃だったわ。川の水が増水しているのを、物珍しそうに見ていたのよね。あたしは危ないからこっちに来なさい、と言ったのよ。ええ、もうきつくね。だって堤のあたりは土で固めてあるだけ、それも増えちまった水でふやけているから、いつ崩れてもおかしくなかったんだもの。でも子供の気持ちを考えてあげなきゃいけなかったわね。あたしに怒られると思って、あの子は堤の上で立ち止まってしまったのよ。それが、あの子の最後だった。
 鉄砲水が急にあの子を捕まえて、水底へと連れて行ってしまった。叫ぶ間もなかったわ。ええ、そりゃああたしは妖怪よ。しかも水の傍にいる妖怪。でも、増水しちまった川に逆らって泳げやしないわ。ましてや、あの子はまだ小さかったんですもの。あたしはただ、あの子が沈んで行くのを、見ているしか出来なかった。傍にいなかったのを悔やんだわ。でもね。あんなにも増えた水の、それこそ滝みたいな流れを見て、足が竦んじゃったって、誰も咎めはしない。ただね、一人だけ飛び込んでくれた馬鹿がいたのよ。ええ、例の河童よ。河なんとかいうやつ。まだまだ若造だけど、人間の子供が溺れるのを良く助けていたのをあたしは知ってるわ。でもね。あの子を河童が引き上げたとき、もうあの子は息をしてやしなかったのよ。そりゃ、あたしが助けられなかったのがいけないわ。体だけでも川から救い上げてくれたんだもの、それには感謝してる。でも、あの時足が竦んじまった情けなさと、あの子に対する申し訳なさとで、いっそ河童が憎く思えるのよ。逆恨みだって判ってはいるのよ。でもどうしようもないの。だから、あの河童が悠々と泳いでいるとき、体に巻きついて水底に引きずり込んでやったのよ。…人間の男に間に入られなかったら、きっとそのまま死なせてやったのに。
「本当に憎んでいる相手を、間違えちゃいけませんよ」
 そうあの男が言わなかったら、あたしはきっと。
 ええ、本当に憎んでいるのはあたし自身。あの子を、あの可愛い子を救えなかったあたし自身よ。もうあれから随分になるわね。この季節になると、思いだすのよ。五月雨が、終り近くになってまとめて降った、あのときのことを。

 あれは、そう、桜の花の終わる頃だったかしら。小さな女の子が二人、連れ立って歩いていたの。一人は市松人形みたいな子でね。もう一人は。…あたしは目を疑ったわ。あの子がそこにいる。そう、あの五月雨の終わる頃、水底に連れて行かれたあの子が。浅葱色の着物を着て、元気に飛びはねて。はしゃいでいる。二人の会話が良く聞こえたわ。五月雨の一番露を一緒に浴びましょう。って。ああ、それは心に深く沈めた願い事が叶うまじない。あたしがいつかあの子に教えたまじない。なんであの子が知っているの。あの子は、あの子は。私の可愛かったあの子ではないの。
 二人が別れ別れになるのを待って、あたしはその子の後をつけたわ。あの子が、あたしの元へ帰って来てくれる気がして。でも、違った。そう、二人で遊んでいた時の話が聞こえたから、判ってはいたけれど、この子は雨童。あの子じゃない。寧ろ、あの子を死に追いやった妖怪の眷属。あたしは、雨童を捕らえて洞窟に閉じ込めたわ。蛙の妖怪の子を誘き寄せる為の餌になりなさい、と雨童に迫ったわ。あの河童を苦しめる道具に使ってやるのよ。蛙の子が目の前で食われたら、河童はどうするかしら? あたしと同じような気持ちを味わってくれるのかしら。そんなことばかり考えてたわ。そう、この雨童はあの子じゃない。あたしの可愛いあの子じゃない。
 でも雨童は一度もあたしの脅しに屈しようとはしなかったわ。
「大好きなお蛙井ちゃんを売るような真似、あたいはしないわ」
 凛とした風情で、絶対大切な友達を守るんだって気概だけはあたしにも判ったわ。こんなに小さいのに、この子はなんて強くて潔いんだろう。ああ、あたしはこの子に何をさせたかったんだろう。親友を裏切らせて、あたしの足元に跪かせて、それで何か得られるものがあるというのかしら。水も餌も何も与えないで何日もつかしらって、あたしはこの子に言ったわ。出来るだけ、冷たく。出来るだけきつく。雨童は死にはしないわ。でも傍目から判る程には弱る。だって洞窟の中には雨が吹き込んでは来ないもの。
 日毎に弱っていっても、雨童は「絶対にお蛙井ちゃんには手を出させない」って弱々しいけど、しっかりした声であたしに言い続けた。でも、この子が気絶したとき、あたしは思わずあの子の。可愛いあの子の名前を叫んでた。…それからあたしは、間違いに気づいたの。あたしは、あの子に生きていて欲しかっただけなんだって。この子が生きているのは、この子の罪じゃない。この子があの子に似ているのは、この子のせいじゃない。水を一滴も口に含まずに、ただ「お蛙井ちゃんを殺さないで、助けて」って。かすれた声で、一心に願うこの子の姿が、あの日のあの子の、救いを求める姿に重なって。あたしは、ようやくほぐれた心の糸を、解すことができたの。

 ごめんなさいね、って戒めを解いたわ。
「もう、お蛙井ちゃんを虐めたりしない?」
 ええ、とあたしは肯いたの。
「ならあたい、毎年この季節にここに来てあげる。蛇さん、いつも淋しそうな顔をしてた。きっと淋しいからだったんでしょう? あたいが来てあげるから、もう悪いことしちゃ駄目よ」
 あたしは瞼のあたりが熱くなったわ。捕まえて、脅してたあたしに、この雨童はなんて気持ちを注いでくれるんだろうって。
「あたいは、小雨っていうのよ。蛇さん、淋しかったら真崎稲荷に行ってね。『狐兵衛さん、狐兵衛さん、小雨を連れてきておくれ』って言って。そうしたらあたい、遊びに来てあげる。だから、もう泣かないでね」
 その時だったわ。にっこり笑った小雨ちゃんが首を傾げたときにね。あたしは見てしまったのね。あの子と同じところにあった、大きな黒子を。
 生まれ変わりなんて、信じちゃいないわ。だけど、もしかしたら、この小雨ちゃんは、あの子があたしの為に寄越してくれた子なんじゃないかって気がしたのよ。目印に、そこに大きな黒子をつけて。夢物語だと笑うかも知れないわよね。ええ、笑っていいわよ。でも、小雨ちゃんのお陰であたしは正気に戻れたのよ。ずっと五月雨の終りが辛かった。でも、今は小雨ちゃんが来てくれる、待ち遠しい季節になったの。
 大地に注がれる空からの。温かく、深い恵みの贈物を、待ち焦がれる季節になったのよ。