第一章イオニアの華
二、騾馬の王
四
騾馬という生物は、雌の馬と雄の驢馬を掛け合わせた雑種の生物で、通常繁殖力はない。馬よりは小さいが驢馬よりも大型で粗食にも耐え、性質や声は驢馬に似ており、大人しく体質は強健で耐久力が強く、西アジアを中心とした地域で使役用として使われていた。中国大陸では清末期頃には良く使われていたようだが、逆に雄の馬と雌の驢馬を掛け合わせた、こちらも一代限りの雑種は使役に耐えないという。良馬が少ない地方での、苦肉の策と言えるかも知れない。
黄土色の城壁が同心円を描いて幾重にも折り重なっている。ひとつ一つの壁の輪は、内側に行くに従って胸壁の高さの分だけ高くなっていくように設計されていた。遠目に見たら山と見紛う城壁は、彼の曾祖父が作らせたものである。煙るような空は地上から吹き上げられた砂を含んでいるせいだろうか。眼下に広がるその町並みは、見慣れたメディアのそれであった。
こちらに背を向けた幼い子が、しゃがんで放尿していた。それはたちまちのうちにあたり一面に広がって町中に溢れ、更にアジア全土に氾濫して全てを飲み込んでいった。
「何者ぞ?」
声を掛け、振り向いたその顔を見て息を呑んだ。それはまだ幼い我が娘だったからである。にっこりとあどけない微笑みを浮かべる顔が、たちまちの間に大人びて立ち上がり少女の姿になった。やわらかい上質の布で織られた衣をまとい、裾を鮮やかに捌いて近づいて来る。
夢は、そこで醒めた。
ある朝、王子アステュアゲスは何やら不機嫌な様子であった。妃が宥めたりすかしたりしても今日ばかりはまるで利き目がない。その不必要に厚い胸板にしなだれかかって甘えてみても、いつもならあっという間に伸びていく鼻の下は変化を見せない。途方に暮れた妃は溜息をついた。
「お妃様、何事かございましたか?」
そう声を掛けてきたのは、僧侶(マゴス)で妃がもっとも信頼する者である。美麗であり、少々頭が良いのを鼻にかけるところはあったけれども、何かと役に立つ情報を持ってくるのであればまあ多少の欠点には目を瞑っても良さそうだった。
「殿下が今朝から不機嫌なご様子。お前は何か聴いておるかえ?」
甘い吐息にたゆたうような憂いをのせて、妃はともすれば秋波ともとられそうな視線を流した。
「お妃様の憂いを晴らしてご覧に入れましょう」
彼はそういって王子に近づいた。
その姿を見た王子アステュアゲスが彼を呼びとめたのは、まさに天啓によるものだったのかも知れぬ。
「お前は夢占いも?」
「はい、私が夢占いを」
王子はそこで彼が見た夢の話をした。僧侶が解き明かしたその夢の内容は、彼をして戦慄させるに足るものであったが、僧侶は妃の機嫌を損ねぬような王子の決断を導き出すべく、努力していた。王子に感謝されても妃に疎まれれば、今の満足な生活に翳りをもたらすことは必至である。僧侶の意見を聴いて王子は素早く頭を巡らせた。自分に釣り合うような身分の者ではならぬ。家柄は良い方がよかろう。性質は大人しく、出来れば地位が低い方が良い。その彼の脳裏にふと閃いた顔があった。アンシャン王カンブージャである。控えめで、でしゃばりという言葉とは一生縁がなさそうな青年であった。
「カンブージャを呼べ」
妙案を思いついた。と王子はニヤリ。と笑った。
アンシャン王カンブージャとメディア王キュアクサレスの孫娘マンダネとの婚礼は、それから程なくして行われた。王であり花嫁の祖父であるキュアクサレスは、急な孫娘の結婚に正直戸惑いを隠しきれずにいたが、その縁組を取りまとめた王子から事情を聴き「まあ良かろう」と判断を下した。婚礼の相手が彼の意に適う青年であったからでもある。カンブージャなら大それたことはすまい。とアステュアゲスに肯いて見せた。
カンブージャは、国でもっとも身分の高い娘を妻に得たが、何故彼に棚ぼたのようにマンダネが贈られたのか、知る由もなかった。
若いというより幼い妻は、王族にありがちな気位の高さや我侭さからは不思議と無縁でいたので、彼は掌中の珠のように可愛いらしい妻を慈み。仲睦まじさの結果として、新妻はたちまちに身篭った。子の父となるカンブージャが喜んだことは言うまでもない。彼は早速妻の父であり彼の義父である王子アステュアゲスに報告に赴いた。
愛妻の父は娘の妊娠を喜び、青年は喜びのうちにアンシャンへと帰国したが、彼が帰るとすぐに義父から娘へ里帰りを促す知らせが届いた。それには、初めての出産で心細いだろうし王キュアクサレスも望んでいるゆえ、急ぎ戻るようにとあった。仲睦まじい二人は離ればなれになることを哀しんだが、娘を思う父の好意を無下にすることも出来ず、若い夫婦は初めての別離を味わうことになった。
やがて月が満ちて。
花の香が麗しい月を彩るような夜、王の孫娘マンダネは丸々とした男の子を産み落とした。その知らせは父であるカンブージャよりも先に、祖父であるアステュアゲスに届けられた。
王子アステュアゲスにハルパゴスという名の寵臣が居た。彼は王子の身の回りの世話を常に傍に居て滞りなくこなす人物である。彼は主人から密命を受けると、如何なる命令であろうといつも表情を変えずに「御意」とだけ答えてその場を立ち去るのだった。無駄な言葉など無い方が良い。王子はその無駄のない所作に満足していた。
「行け」
低い声を必要以上に落として呟く。それに応えるかのようにハルパゴスは音もなく立ち上がり、歩き出した。王の孫娘マンダネの居る産室へと。
「陛下がマンダネ様のお子様を見たいと仰せになりましたので、お子様をお迎えに上がりました」
言葉ばかりは丁寧だが何やら威圧するような気配に、なりたての母は微かな不安を憶えた。しかし王命とあれば拒否も出来ぬ。
「いずれおじい様には妾がこの子を抱いてご挨拶に参ります。急がずとも」
「いえ、是非ともすぐにとの仰せでございますので」
押し問答しても仕方が無いのは判ってはいる。諦めて我が子を用意しておいた煌びやかな産着に包み、真っ赤に染まった小さな頬に触れた。
「クル。ひいおじい様に、お前の母マンダネが宜しく申していたとお伝えするのですよ」
生後数日の子供に言葉を理解することなど出来よう筈もないが。母になったばかりの、誇りに満ちた微笑を浮かべると、まだ少女と言った方が良さそうな娘は生まれたての我が子を送り出した。
ハルパゴスは、産室から見えない処まで来ると、腕に抱えた赤子を落とさぬように気遣いながら一目散に走り出した。向かった先は自宅である。メディア王家の血を享けたこの赤子の存在を、彼は一刻も早くこの世から消し去らねばならなかった。王子アステュアゲスの命令に背くことは許されぬ。しかし、王子はもうそれなりの年齢であるのに未だ世継ぎとなる男の子が居ない。もし仮に王の孫娘マンダネに王位がうつることがあるとすれば、女王は己が腹を痛めて産んだ子を殺した男を、そのままにしておくだろうか? 自分の手を汚したくはない。そう思う彼の脳裏に閃いたのは、王子の家来であるまだ若い牛飼であった。名をミトラダテスという。