第一章イオニアの華

六、ナクソスから来た客




「さて。事情は判ったが。私としては、今ナクソスを牛耳っている一派を敵に回しても、諸君の帰国を実現させるに足る程の、強力な軍隊の提供を今すぐに確約することは出来ぬ」
 少し間をおいて、ナクソスの人々の顔を見回す。失望が七割方支配したような顔つきに、内心で満足を憶えると、顔を顰めつつ言葉をつぐ。
「確かナクソスには、八千の重装歩兵と、軍船多数があるとかつてヒスティアイオスから聞いたが、相違なかろうか」
 苦虫を噛み潰したような顔で、一人が答えた。
「そうだ」
 きりりと歯軋りをしている者が数人いた。忌々しい、と毒づいた者も数人いる。故国にいればそれは自らを守ってくれる強力な軍隊だった。しかし今は彼らの帰国を阻むだけのものでしかない。
「屈強の壮丁(三十歳から六十歳までの、ある程度の資産を持つ正式市民であり、参政権を所有する。戦時には市民兵として活躍することを求められた)八千を相手にして、勝ち得る程の軍隊となると…。即準備出来るようなところを考えただけでも、容易に出せる、と即答は出来ぬ。まあしかし、そなたらの為に出来るだけのことはしよう。暫く滞在されるだろうか」
 行くあての決まらぬものに、その問いは少々惨いものと言える。
「……滞在の場所を提供頂けると有難い」
 アリスタゴラスはにっこりと肯いて、客舎の手配と、歓迎の宴の準備を命じた。

 数日後。アリスタゴラスからの呼び出しを受けて、ナクソスから来た一団は再びプリュタネイオン(公会堂)に集結した。
「先日の一件じゃが。少々思案をして、思いついたことがある。それが最善と呼べるに値するか否かは諸君に聞いてからにしよう。私の懇意にしている者の中に、ヒュスタスペスの子アルタフェルネスがいる。ペルシア王ダレイオスはヒュスタスペスの子であるから、まあその弟じゃな。サルディス総督で、アジア沿海地方一帯を支配し、大軍隊と軍船多数を持っている。彼に頼れば、或いは、そなたらの望みを叶えることが出来るかも知れぬ。どうじゃな?」
 勿体つけたようなものいいではあるが、ナクソスから来た亡命者には天からの声とも聞こえた。
「おお。それは心強い」
「流石はアリスタゴラス」
「是非にも、宜しく取り計らって貰いたい」
 口々に出てくる賛辞は、アリスタゴラスの耳に快く響く。だが、肝心なことを忘れては勝利者とは呼ばれることはない。
「それで、その軍隊派遣の費用だが…」
「おお、それは我らが何れ弁済しよう。事の成った暁に。どうかそのようにアルタフェルネス…だったか。約束しておいて貰いたい」
 多数の軍勢を後ろ楯に戻れば、ナクソスの人々は彼らの言うがままになるだろう、そしてナクソスの近くの島々も同様になろう。彼らはそう思っていた。画布一杯に描かれた未来図は、極彩色であるように思われた。
「では、私はサルディスに赴き、アルタフェルネスにその話をしてこよう。待たせて済まないが、もう暫く滞在して頂きたい」
「吉報を楽しみにしている」
 ナクソスから来た客人達は、そういってアリスタゴラスに深い感謝を寄せた。無論アリスタゴラスにはアリスタゴラスなりの皮算用がある。だが、それは彼自身の胸のうちに仕舞われて、ナクソスの人々の前に公開されることはなさそうだった。

 数年前、ヒスティアイオスが通った道を、今アリスタゴラスが通っている。サルディスという名の古都は、やはり一国の都であった場所であった。広壮にして豪華な王宮の主はダレイオスだが、現在は代理としてその弟アルタフェルネスがいる。王の道の出発点そして文化の都でもある。膨大な量の寄進物を奉納したことで知られるサルディスの主人クロイソスは、その寄進物の為にデルフォイから神託の優先権を拝領した。その富はかき集めて献上されたものではないということが、王宮の建物一つで判る。酷政を行って民から吸い上げた財宝ではなく、集まるべくして集まった富の余剰を、奉納していたにすぎない。豊かな都は今は最早リュディアのものではない。
「どえらく立派だな。噂以上だ」
 そう一言感想を漏らすと、アリスタゴラスは中へと誘う案内人に従った。ナクソスの人々と、自らの野望の為に。

 アルタフェルネスが居たのは執務室である。ここサルディスには旧リュディアの玉座もあるが、それは普段使われることはない。玉座の主はダレイオスであり、名代であるアルタフェルネスがそこにダレイオスの代理人として着座することは、極稀なことであった。アリスタゴラスの姿を見て、少し眉を寄せた。一瞬のあとに表情が少し柔らかいものになる。
「ヒスティアイオスの娘婿どの。久しぶりだ」
 アリスタゴラスの訪問は既に伝えてあった。顔を見るまで、それがヒスティアイオスの従兄弟であるアリスタゴラスと一致しなかったのだろう。父の名を添えてあるとはいえ、ヘラス(ギリシア)人にアリスタゴラスという名前は、少なくない。イオニア系有力者だけでも数人の名前が挙がるのだ。父名だけで識別できなかったアルタフェルネスを責めるのは酷であろう。久闊を叙して、本題に入る。
「閣下はナクソスという島をご存知ですかな?」
「確か、アイゲウスの海(エーゲ海)の島だったように思うが」
「左様。大きい島ではありませんが、美しく、地味も肥えており、奴隷や財宝も豊か。アイゲウスの海に浮かぶ島の中でも指折りの島でイオニアからも近うございます」
 その言葉に心揺るがぬ権力者は少ない。アルタフェルネスとて例外ではなかった。ごくり、と唾を嚥下する音が聞こえる。
「とっかかりが、欲しいな」
 その瞬間を待ちかねていたように、にやりとアリスタゴラスが笑う。
「閣下にとっても悪い話ではありますまい。実は今、ミレトスにナクソスからの亡命市民がおります」
「ほう」
「国に帰れば彼らは一級の有力市民、ナクソスに兵を進めて彼らを帰国させるよう取り計らうことをお勧めいたします。軍隊出動費用は事の成った暁にナクソス亡命市民が全額弁済すると申しておりますし、閣下はただお持ちの軍隊の一部をほんの少しの間、お貸しするだけで宜しい。ナクソスに従属する島々も数多くございますゆえ、これらの全てを大王(ダレイオス)の版図に加えることが出来ましょう。そうなれば大王の覚えも更に目出度くなりましょうし、何れはそこを基地として更に西へ足を伸ばす足がかりとすることも出来ましょう。如何ですかな」
 アリスタゴラスの目はアルタフェルネスの反応を見守っている。だが、その表情は「美味きわまる獲物を逃すのは愚者のやることですぞ」と言っているようにアルタフェルネスには思えた。西には、エウボイア島、そしてその先にはアテナイを含めたヘラス本土がある。将来を見据えた布石だと王であり兄であるダレイオスから絶賛されるのは間違いないだろう。
「船はいかほど必要かな?」
 身を乗り出しかけたアルタフェルネスに少々逆らうように、眉根を寄せて思案気に呟く。
「そうですな。百艘程あれば十分でしょうか」
 この当時、海軍力を保有する都市国家でも、五十艘以上の船を用意出来るところはまずなかった。殆どが陸上の戦力であり、重装歩兵であった。アリスタゴラスはそれを踏まえた上でこの過酷とも言える条件を提示したのである。
「ふむ。そなたの申し出はペルシア王家にとってまことに有益なものだと私も思う。大王の認可を必要とするが、それが得られればすぐにでも用意するとしよう。それから、船の数は二百艘だ」
「えっ」
「よもやこの数で少な過ぎるとは言うまいな?」
 にやり。と笑ってアルタフェルネスは、アリスタゴラスの計算の倍の兵力を提示してみせた。兵法の基本である。
「おお。ナクソス攻略はこれでより確実なものとなりましょうぞ」
 アリスタゴラスは喜色を湛えてミレトスへ帰国し、アルタフェルネスはすぐさまスーサへ使者を送った。ダレイオスの認可を求める為である。

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