第一章イオニアの華

四、スキュティア遠征




 イオニア部隊の指揮官達は、スキュティア王からの使者を囲んでいた。
「我等はお主らに自由を与えにきた」
 スキュティア王の使者はそう指揮官達に告げた。威風堂々としたその様子は、傲岸不遜な微笑みとあいまって、自信の深さを窺わせた。長髪多鬚で頬骨が高い民族である。
「我等の言うことに耳を貸す気になりさえすれば」
 ひそひそとした私語が各所で交わされる。
「どういうことだ?」
 詰問調の声をあげたのは、ケルソネソスの僭主であるミルティアデスである。アテナイ市民としての資格を持ち、名家フィライオス家の血を引く人物であるが、様々な事情からペイシストラトス一族によりケルソネソスへ派遣されていた。謀略によってケルソネソスの支配権を掌中におさめた。利に聡く万事に目端がきく彼は、今まさに男盛りである。妻はトラキア王の娘であるが、現在身重であった。
「我等スキュティア人は、かのペルシア王とお主らとに交わされた約定を承知している」
 使者が語り出したのは、ダレイオスがあの船橋を離れた日のことである。本来は壊してしまおうと思っていたダレイオスが橋を残しておくことを決定したのは、ミュティレネ部隊指揮官コエスの建言を受け容れてのことだった。六十日間の船橋の守備をイオニア部隊に命じたのである。
「即ち、約束の日数だけ待ったら、さっさと壊して帰国されることをお薦めする。ダレイオスとの約束を守るのであれば、その咎めを受けることはなかろうし、我等もお主らを害することはない」
 その言い方には何やら引っ掛かるものがあるように思えたが、使者に対してはその通りにすることを約束した。
 スキュティア王の使者が去っていくと、指揮官達は協議を催した。即ち、使者の言葉の真意とその内容についてである。謀略の匂いを感じとれぬ者がこの場にいるのなら、それは不敏であるといえた。

 スキュティア二王軍は、決戦の準備にかかっていた。歩兵と騎兵とを配備して、ペルシア軍に対する陣形を組む。今まさに出撃というその瞬間、一羽の兎がスキュティア軍の眼前を通り過ぎて行った。それを見たスキュティア兵は次々に兎を追って隊列を乱し大声を挙げて走っていく。少々離れたところからその様子を見たダレイオスは、何の騒ぎかと側近に尋ねた。その答えを聞いてダレイオスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
「よくよく侮られたものだ。…先日の贈物も、ゴブリュアスの見解が正しかろう。しかし、判らぬ。彼奴らは何故にこれほど我等を引き回すのか?」
「手に負えぬ民族であるとは察しておりましたが、これほどとは…。これはもしや、我等をこの地に引きとめて、故郷へ帰れぬようにする為ではないでしょうか」
 ゴブリュアスの意見で、ふとダレイオスは思いあたった。六十日の船橋のことである。
「船橋…」
 唇から零れた呟きに、ダレイオス自身が驚愕していた。
「そうだ、船橋だ。六十日を経過すれば、船橋は破壊されイオニア部隊は去ってしまう。そうなれば、我等は帰国が難しくなる。スキュティア王の狙いというのはもしや…!」
 血が冷えた。青ざめた顔に冷たい汗がたらり。と落ちていく。今日は何日目であろうか、とダレイオスは頭の中で日数を数えた。船橋のところまで、何日で戻れるか、ダレイオス自身にも判断がつかぬ。近道を知っている訳ではない。来た通りに戻れば、それだけの日数がかかる。しかも邪魔が入る可能性が極めて濃厚であるのだ。それも、ここの場所を庭と心得ているような者たちの。
「王」
 力強い声が、近くで呼びかけた。
「戦うに難のある者たちと、傷病者、それから失っても構わぬ者と、驢馬を用意して頂けますか?」
「何をする気だ?」
 ゴブリュアスは、微笑みを深くした。

 その夜。ペルシア王の陣地では、いつものように篝火が焚かれていた。ダレイオスは準備が整ったという報告を聞いて、満足げに肯いた。
「出立!」
 ペルシアの王は凛々しく威厳溢れて、堂々たる偉丈夫ぶりである。それに従う全兵士は感歎の溜息を漏らした。男と生まれたからには、ああなりたいものだ、と。
 ダレイオスが出発すると、一斉に驢馬が凄まじい嘶きをあげた。
「王様が精鋭部隊を率いてスキュティア攻撃に向かわれるそうだ」
「我等はその間陣地をしっかり警備せねばならんぞ」
 各所で明るい会話が聞えた。驢馬の悲痛な悲鳴とは裏腹な程に明るかったそれが、夜明けには怨嗟と変わることも知らずに。

 真っ直ぐにイストロス河に向かいたいところであるが、方角を把握している者はダレイオスの軍中には皆無である。来た道をそのまま戻る他はなさそうであった。既に五十日をとうに過ぎている。あと数日の間に船橋のところまで帰ることが出来なければ、帰る為の橋を破壊され、ペルシアへ帰国することは叶わなくなるだろう。正規の道作りがされていない道なき道を、それでもダレイオス率いるペルシア軍は全速力で駆け抜けた。罪なき犠牲を置きざりにして。

 夜が明けて、ダレイオスに置き去りにされ裏切られたことを知った人々は、スキュティア王の前に投降した。ペルシア王の計略に嵌まったことを悟ったスキュティア三王は、急遽ペルシア軍を追ってイストロス河へ向かった。途中でダレイオス軍を捕捉することがあれば決戦に持ち込むつもりでいたが、先に船橋に到着したのはスキュティア軍であった。スキュティア軍は騎兵部隊であるが、ペルシア軍は大部分は歩兵である。速度に差が出るのは是非もない。何より土地鑑の有無が各軍の移動速度を大きく別けていた。恐らく既に約定の六十日を越えている筈だが、イストロス河の船橋はまだあった。かつての申し出を「その通りにしよう」と言いながらも実行せぬイオニア人に、スキュティア軍は苛立ちを隠しきれずにいた。
「イオニア部隊の指揮官殿、まだここに留まっているのは明らかに不当ではないか?」
 前回と同じ使者が再びイオニア軍の指揮官を前にしていた。
「さっさと船橋を破壊して本国に戻り、自由の身であることを喜んで危害を加えぬ我等と神に感謝を捧げて貰いたいものだ」
 使者の胸中には、かつてダレイオスがスキュティアを臣従させてやると言った言葉が渦巻いていた。それは騎馬民族スキュティア人の憤激を誘発せずにはおかぬ言葉であった。
「お主らの主君であった者は、この地で十分に歓待しよう。そう、他のどのような国にも侵攻出来ぬようにな」
 その笑いは、獰猛な肉食獣を思わせる笑いであった。

 スキュティア王の使者を待たせて、イオニアの指揮官達は別室で協議していた。ミレトスの僭主ヒスティアイオス、キュメの僭主アリスタゴラス、ケルソネソスの僭主ミルティアデスなどをはじめとした数人がその場で意見を交わしていた。ダレイオスに船橋をこのままにしておくよう進言した、コエスの姿もあった。スキュティア人の申し出に従ってイオニアを解放すべしとの声もあれば、自分達が僭主として君臨出来るのはダレイオスのお陰であるから、その勢力が失墜すれば自分達もその座を追われて地位を保つことは出来ぬだろうとした者もいた。後者の代表的人物がミレトスのヒスティアイオスである。どの町も僭主に従うよりは民主制を望むに違いないと彼が発言すると、それに同調する意見が多数を占めた。そして、方針が決定された。
「スキュティア王の使者よ。貴重なる意見を携えてきてくれたことに深く感謝する。我等は自由を求めて船橋を破壊することにした。我等はスキュティア王に報いるべく、十分に尽くしたいと思っている。健闘を祈る」
 その言葉を真のものと信じて、使者は去っていった。船橋が、弓の射程に入るところだけしか破壊されていないことには気付かぬままに。

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