第一章イオニアの華

二、騾馬の王



十一

 クルの父であるアンシャン王カンブージャは穏やかな人柄を買われて王女マンダネの婿となった。人品卑しからぬ、かつ身分の高からぬ者をとアステュアゲスが熟考して選んだだけあって、思慮の深い人物であった。そのカンブージャがここのところ、少し沈んでいるようである。妻のマンダネもそれに気づいたようだが、自分では動かずクルに酒を持たせて父の機嫌を伺うようにと告げた。
「男同士の話をしてみたいとでも言ってご覧なさい」
 そういって片目を閉じてみせた母は、どこか悪戯好きな少女のようであった。若くして彼を産んだマンダネだが、その子がこれ程にも成長しているというのに、今も瑞々しく若々しい。その母に見送られて、青年は父の元へと向かった。

「父上。ご一緒しても宜しいですか?」
 爽やかで張りがあるのに、涼しさよりも温かさを感じさせる声に、カンブージャは振り向いた。そこには成長した頼もしい長男クルがいる。手にした酒は妃のマンダネが持たせたのだろう。と彼には見当がついた。知らぬ間に妻子に心配を掛けていたらしいことに気づき彼は自嘲したが、同時に連れ添った妻の配慮にも感謝する気持ちを忘れては居ない。妻であるマンダネは自分の妃であると同時にメディア王アステュアゲスの血をひく娘でもある。その彼女には言えぬ話もあるのだ。それを妻は暗黙のうちに了解していたものと見える。
「すまんな」
 父はそれだけ言うと首を傾げるように微笑んで杯を受取った。クルはもう一つの杯を手に、父の隣に腰をかけた。夜の闇は深くあたりを包んでいる。草の上を渡る風は涼やかで、少し湿り気を帯びていた。
 余計な言葉を発して沈黙を破ることは、クルには憚られた。父は恐らく母の配慮で自分が来たことを察している筈である。母は父からその理由を聞き出すことを目的にしている訳ではないだろう。ならば、少し傍に居て一緒に酒を酌み交わすだけでも良いのかも知れぬ。そう思いかけていたクルであったが。
「マンダネか」
 思いがけぬ直球に青年は戸惑った。顔にかかる髪を掻き揚げる振りをして表情を隠そうとするが、上手くいったかどうか。
「図星か」
 からからと笑う父を息子は久しぶりに見た気がした。
「父上には全てお見通しですね」
 クルの戸惑いをからかうかのような父の笑顔が青年には眩しく見えた。
「良い夜だ」
 杯をあおった父の横顔は、少しやつれ疲れているように見えた。

「久しく王宮から良い風評を聞かぬ」
 父は訥々と話し始めた。クルには祖父、カンブージャには義父に当るメディア王アステュアゲスのことである。以前から気に入らぬことがあると粗暴な行いをする性癖があったが、それでも王子という身分のせいか、それなりに抑えられていたようである。箍が外れたのはアステュアゲスの父たるキュアクサレス王が没し王位に就いた頃からである。あるいは、元々そういった性向があったのかも知れぬ。このまま粗暴な行いが止まぬままなら、やがてメディアは瓦解する恐れがあろう。忠誠を尽くすべき譜代ではないアンシャン王家はそれはそれで構わぬが。と父はそこで言葉を切った。
 母のことか。とクルには合点が行った。父王の話はその娘である母の耳にももたらされているに違いない。しかしそれを諌めるには、王女マンダネの位置は最早あまりにも遠すぎた。
「せめて…」
 呟くような声を、夜風が吹き消す。
「父上…」
 その声が、何か言いたげなものを秘めていることに気付いて、カンブージャは視線を息子に当てた。
「どうかしたか?」
 言い淀み。しかしやはりこれは父に相談すべきだろうと青年は勇気を振り起こした。
「ハルパゴスという、王の寵臣を憶えておいでですか?」
 クルの言葉に、カンブージャが片方の眉を微かに持ち上げる。その名に憶えがあったからに他ならない。確か、そう…。
「お前を殺すよう命令されて、牛飼のミトラダテスに委ねた男だ」
 口中に苦いものが混じったとでもいわんばかりの、吐き捨てるような言葉にクルは次の語を続けるべきか否か戸惑っていた。アステュアゲスの機嫌を損ねず、その娘マンダネの不興をも買わぬよう。そして自らの手を汚さぬようにと上手く立ち回ろうとした男をクルの父は快く思っていなかったようである。
「その男が、どうかしたか?」
 伺うような目つきは、刃物に似た鋭い輝きを失っては居ない。
「こんなものを私に送ってきたのです」
 全てを投げ渡すかのように、クルは父にそれを委ねた。黙って持っていることは、父に対する背任となりかねぬ。一刻も早く渡すべきであったろうが、それを渡すことによって父をそして母を否応無く巻き込んでしまうことを、青年は何よりも恐れていた。カンブージャは密書に目を落とした。暫時そのままに見詰めていたが、やがて息子の重荷を分け合うように手を差し出して受取った。
 密書には、アステュアゲスへの報復と謀叛を勧める内容が記されていた。今クルがこの世にあるのは、神のクルに対する絶大な加護と、王子アステュアゲス(当時)の命令に「正確に」従わなかった自身の功績が大きな影響を及ぼしていることを書き認め、ハルパゴス自身が被った悪夢のような出来事についても詳細に語っている。それを踏まえて、メディアの重臣に働きかけをしていること、クルがやって行きさえすれば寝返りの用意がいつでも出来ていることを暗示する内容になっていた。
「お前は読んだのか?」
 父はどこまでも穏やかであった。
「はい」
 静かに肯いたクルの声もまた、冷静であった。
「どう思う?」
 既に答えを知っているような瞳がクルを捉えた。父上にはまだまだ敵わぬ。と青年は思う。ハルパゴスが祖父アステュアゲスの命令に「正確に」従わず、クルが生き長らえることが出来たのは事実ではある。だが、彼はそれを正しく意図していた訳ではない。それはあくまでも結果であり、牛飼ミトラダテスがその命令を忠実に実行していたなら、クルは既にこの世の人ではなかった筈である。青年は父に自分の考えを伝えた。
 成長した息子の見識を、父は微かに笑うことによって評価したようである。
「私も同じ考えだ」
 アンシャン王の心は、この時既に決まっていたのである。微笑みながら父は息子に語りかけた。これからのアンシャンの行く末について。

 ハルパゴスは定期的に連絡を寄越した。王に懐疑を抱かせることを怖れてか、頻度は然程多くはない。しかし確実にある連絡は、ハルパゴスの妄執とも呼ぶべきものを思わせた。その使いは毎回異なる。訴訟を持ち込む民であったり、クルの幼馴染みであるメディア貴族の青年であったり。それらの人々は、恐らく遣いとして「使われた」ことに気付いてはいないだろう。姿を変えてクルの前に現れる「遣い」がもたらすそれは、少しずつメディア内部特に軍部や王宮の情報を漏らしていた。一つひとつの情報はさしたるものではない。だがそれが集合して一つずつ嵌め込まれていく時、ジグソー・パズルのように一つの大きな絵を描きだすのである。それはハルパゴスが描きだすメディア滅亡の絵画であった。獲物を追いつめる猟犬よりも狡猾に、彼は猟師たるべきクルに獲物…メディアを差し出して見せたのである。それは、かつてアステュアゲスの寵臣であったハルパゴスの、生涯をかけた復讐劇最初の一幕であった。

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