銀宵――海虹外伝――
十二
虞炎玉が帰邑して、数日が過ぎた。「岳姫(岳孔昭)拉致事件」は表沙汰にならぬまま或いは有耶無耶のうちに落着し、関わった海邑のものも帰邑しつつある。そして風家のものも……といいたいところだが。何故か、風家の嫡子はまだ海邑に居た。そして炎玉にとっては迷惑なことに、焦茶色の髪の持主の身辺をうろちょろとまとわりついていた。
「何ぞ用か」
冷ややかな視線を向けると、その目は宙に彷徨い明後日の方向を見ながら「た、たまたまだ」と返ってくる。そんなことが一日に三度四度と続いては流石に閉口するしかなかった。これなら追尾されている方がまだましと言える。慕われているというのならまだ可愛くも思えるかも知れないが、視線を合わせることもなく見当違いの返事が返ってくるばかりでは、炎玉も途方に暮れる以外のことを思いつかない。「用がないなら近づくな」という言葉を呑み込んだのは、相手の体面を考慮したからだが、忍耐力も限界に近づきつつあった。しかし海邑でなら追尾者を撒くのも容易である。当初は真面目に対応せねばならぬかと思ってそれなりにしていたが、暫くすると適当にあしらって逃げるが勝ちとばかりに姿をくらませて、風家の嫡子を途方に暮れさせていた。本来なら助け船を出してくれるであろう海紅玉も、他邑の嫡子ゆえ、そして場所が海邑であるがために少し様子を見ているのかも知れなかった。その様子を見て、最初に行動を起こしたのは海家の「実直の見本、模範の基本」、海青玉である。
「お茶をご一緒に如何ですか。維王殿、維行殿」
語尾が微かに籠もる涼しげな声が風家の兄妹にそう誘いかけた。青服をきっちりと着こなし、やわらかな微笑みを浮かべている。後ろに控えているのは青玉の妹にして巫女の紅玉、茶器と茶葉と菓子を載せた盆を手に持っている。
「ありがたいお申し出ですが、特に咽喉が渇いている訳では……」
そう言い掛けた維王ににっこりと笑って。
「あなたがご所望のものをご用意出来ます」
海家特有の黒髪黒瞳を持った少年は、まるで悪戯を企んでいるようだった。
爽やかで深いお茶の香が仄かにたちのぼり、菓子を焼く匂いがふわりと広がる。
「もうそろそろですよ」
そう言って青玉が笑うと、元気の良い足音が聞こえてきた。
「紅玉! 私にも!!」
明るく朗らかな声とともに扉が勢い良く開いて、焦茶色の髪を後頭部高くに括った人物が姿を現す。
「ほら」
勢いよく扉を開けて居間に足を踏み入れた瞬間、中に居た人物を確認して、「しまった」という微かな声とともにそのまま表情が凍る。
「お待ちしてましたよ、炎玉三姐。好物の焼き菓子も紅玉に頼んで用意して貰いましたし、ゆっくりとお茶をご一緒しましょう」
嵌められた、と思ったが、それでも海家兄妹が一緒である。それなら、と観念して、焦茶色の髪の主は、用意された席にすとん。と腰掛けた。炎玉の左隣に紅玉、それから青玉、風維行、風維王の順にぐるっと一周する。その次の瞬間、丸い卓子の中央に焼き菓子が載った皿がそっと置かれた。
「どうぞお召し上がり下さい」
雲なす豊かな黒髪を控えめに結い上げて、そっと微笑む巫女も、優雅に炎玉の隣席に腰を下ろす。焼き菓子の皿の隅には、水果(果物)と、それから少しの香の物も載っていた。甘いものだけではという巫女自身の配慮だろう。
「何か炎玉三姐に重要なご用事があるのではないかとお見受け致しましたが……」
咽喉をうるおし小腹を満たしたところで、のんびりと青玉が微笑んだ。そののんびりした微笑みにつられるように、風維王が「実は、その…」と徐に口を開いた。しかし何か言い出し難いことであるらしく、中々話が先へと進まない。
「言いたいことがあるのならはっきり言わんか!」
いつもなら、炎玉もそう言って卓子を蹴飛ばしていたに違いない。だが、青玉の微笑む前でそれは出来なかった。代わりに先を促したのは海家嫡子である。
「どうぞ、何なりとおっしゃって下さい。ここに居るのは海家の人間ですが、長老や家長はおりません。あくまでも個人的なお茶の席なのですから」
焦茶色の髪の持主はあっ。と叫びそうになった。巫女の兄の配慮の理由を知ったからである。
「いや、別に虞炎玉殿に含むところがあった訳ではなく…、ただ」
「ただ?」
更に先を促す一声を呟いたのは、紫瞳の主であった。
「風邑に来ても良い、と言いたかっただけで」
「はあっ?!」
心なしか、うっすらと頬は赤く、耳は真っ赤に染まっている。隣に居た妹は、言葉を失い目を見開いて兄の横顔を見つめていた。
「私が? わざわざ、一体何の為に?!」
声を荒げたのは言われた内容のせいだろう。招待なのか許可なのかいまいち判り難いのだが、灰色の髪の青年の様子を見るかぎり、前者のようである。
「いや、だから来たかったら来れば、というか…、来ても良い、というか、その」
「そのへたれっぷりは一体なんだ?! 招待してるのか今後行っても良いという許可なのか、全く判らんではないか。男ならはっきりせんか、はっきり!!」
小気味よい程の一喝が鋭く突き刺さるように発せられ、風家の嫡子は顔を赤らめたまま、そっと俯いた。恥じらう乙女のように。
「うー」
「三姐」
紺碧の瞳を真っ向から見据えて糾弾する指を窘めるように包む手は、隣に座る紅玉のものだった。指をそっと折って微笑むことで、炎玉の非礼を無言のままに諌めている。それは、先の巫女であった海白玉がもっとも得意とした方法であった。人前で誰かを糾弾することも、それを人前で窘めることも、された本人の体面に関わる。それを上手く回避する方法を亡き巫女は考え抜いたと言えるだろう。そして、そのやり方は、現巫女にも踏襲されているのだった。
「炎玉三姐へのご招待、有難く存じます。ですが、三姐は多忙につきすぐに、という訳には行かないかも知れません」
穏やかにそう答えたのは黒髪の青年である。彼自身は現在家長でも邑主でもないが、嫡子として海家に連なる一族のものの代理を務めることが出来た。穏やかな物言いと物腰、そして独特のやわらかな微笑みはその父親であった海叔珪譲りだが、様々な状況下で彼の存在は緩衝材としての役目を果たすこともあった。
「状況が許せば、そして本人に異存がなければしかるべき機会にということで如何でしょうか」
つまり、行けたら行く。という程度のことである。正式な場での招待でないのだから、炎玉が行っても行かなくても問題はない。正式な招待を突っ撥ねることは双方の一族間に思わぬ遺恨を残しかねないが、非公式な個人の場であれば単なる口約束に過ぎず、それが実行されてもされなくても七族同士の問題にはならない。ただ友人同士の約束であるというだけだ。炎玉自身が風家兄妹を「友人」と見なすかどうかは別として。
「は、はい。是非」
身の置き処がなくて途方に暮れていた様子の維王も、半ば安堵したように大きく息を吐いた。
湖の傍に寝転がって星空を見ている人物がいた。その隣にすとん。と腰を下ろしたのは、大役を終えた海青玉である。
「一応落着致しました」
それだけを穏やかな声音で告げると、また辺りには沈黙が広がる。
「そうか」
少しの間を置いて答えた人物は、ゆっくりと身を起こした。本来なら後頭部で結わえている筈の黒髪を、首の後ろで無造作に束ねただけにしている。艶やかな黒髪は背中の中央あたりにまで届いていた。寝転がっていたために少し草が髪や衣服についているが、それを気にする様子はない。
「大事になってはまずいと思ってお前に頼んでしまったが。世話をかけた」
「いえ。それよりも伯父上。今回の件、やはり……?」
「うむ」
躊躇いがちにそれだけ答えるが、それ以上の言葉を口に出せずに言い淀む。
「風姫(風維行)は踊らされた、と」
ずばりと本質を貫く青玉の声に、ふと目を細めてその顔を見つめる。
「父に、似てきたな。青玉よ」
懐かしげに見つめる伯父の微笑みは、記憶も曖昧になりつつある父の面影を宿した自身に向けられたものだと知って、照れくさそうに顔を赤らめる。しかし、伯父がそう言ったのは、面差しが似ている為ではなく、寧ろそれ以外のところにあったようだ。
「本質をずばりと切り取ることにおいて、お前の父程鋭敏な頭脳を持つものは居なかった」
月の光を受けた、まだ少年の残り香を秘めたその顔が小さくはにかんだ。
「今回の真の黒幕は、どこにいるとお思いですか」
表情ははにかみ、言葉遣いはやわらかいながらも、その明確さはまさに父親譲りだった。
「恐らく、峡家。しかも、黒幕は嫡流より少し離れたところに居て、今回の事件では直接影響を受けない者。そして、野心家。恐らくはお前と大差ない世代の者だろう」
かなり具体的なところまで犯人像を絞り込めているようだった。だが、海家ならともかく、それでは特定したとは言えない。一夫一妻が守られていて子供の数がある程度限られる海家とは違い、一世代の人数が段違いに多いのだ。
「今後も調査を続けることに?」
青玉がそう尋ねたのは、今回の件が及ぼす影響が小さくはないことを知っていたからである。
「いや」
そう言って伯父は首をそっと横に振った。
「だが。あれほどの事を起こした野心家だ。数年以内に峡家での勢力を拡大して、今後中央に出てくる可能性がある。そうなった場合、今回以上の事件を巻き起こす可能性もある。青玉よ。一族を守るためにも、そういう手合いに足を掬われてはならぬ」
「はい。ところで」
ふと向き直り、正面からまっすぐに伯父の顔を見つめる青年の目は、暗闇の中でさえも鮮やかな光を宿していた。
「お役目があることは存じています。が、碧玉大哥がやがて替わりを勤めることが出来ましょうし、早く邑にお戻り頂けませんか。叔世代が少ないのは仕方ないと判ってはいます。ですが」
「判っている。みなまでいうな」
反論を封殺するような拒絶に、青年は項垂れて目を閉じた。
「いつかは戻る。ただ、今すぐではないだけだ」
伯父は、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、やわらかな声で語りかけた。
夜の闇に銀色の花が風に舞っている。そう見えたのは風花であったようだ。山頂は常に雪に覆われている崖山の、麓である。山頂の雪が強い風に飛ばされて、揺らめき躍るように地上に降り注ぐ。それは一枚の、銀色の幕のようにも見えた。
「銀の宵……か」
どこまでも広がる闇の中を、馬に乗った旅人はそれだけを呟いて再び闇の中へと消えて行った。音もなく降り注ぐ風花は、旅人の肩に触れることなく、地上に落ちて消えていった。
海家をめぐる状況は、変わり始めようとしている。音をたてず降り積もる雪のように、それは澱のように積もり、世界を白銀に染めあげるかに見えた。