銀宵――海虹外伝――
十一
海邑へ向う足取りは、軽かった。婚儀のあとの岳孔昭を確認出来ないのは少々淋しくはあるが、先に片付けておかねばならぬことが山ほどある。落ち着いた頃に行くことに決めて、その旨の連絡も既に済ませた。脇に月鬼日鬼を従え、荷馬車の中に捕虜を転がして、自らは御者をつとめている。幌つきの荷馬車は峡硯人に借りたものだった。一人で大丈夫か、と心許なげに訊ねる峡家当主だったが、それは子供がお遣いをする気分を味わっていたからかも知れない。実際、虞炎玉は大柄な者が多い海一族に生まれていながら、他の六姓からも驚かれるほど極端に小柄であった。その傲岸不遜な振る舞いは子供が大人をからかうように感じるものも少なからず居るようで、炎玉を知ったものが最初に受ける洗礼のようなものでもあった。もっとも、一度その実力を知れば、炎玉の自信のあらわれと好意的に解釈してくれるようになるものも少なくはなかったので、炎玉自身はまるで気にしてはいなかったが。膂力も体力もその小柄な体から推察されるものとは大分異なる実力を秘めていることについては、彼女を知るものは皆太鼓判を押してくれていた。
御者をつとめながらも炎玉の心は海邑に飛んでいる。その焦茶色の髪がもし心を持っていたなら、炎玉よりもずっと先に飛んでいってしまったかも知れない。湖沼地帯を抜け、海邑に通じる階段状態の田圃地帯の傍を通ると、先に連なる豊かな森が少し滲んで見えた。今回はいつもより長めの旅だったことをふと思い出す。近づくと石造りの本館と神殿、幾つかの倉庫などが目に入る。しかしそれよりも目を奪うのは、その名の通りきらきらしい光を放つ「鏡湖」だった。太陽の光を反射して眩しい程のその湖は、海一族そのものの象徴とも言えた。
「炎玉三姐!」
黒髪の美貌の女性が巫女の衣装を身につけて佇んでいるのが見えた。海邑は比較的平坦な場所に作られてはいるが、様々な意味合いから神殿が若干高く見晴らしの良い場所に作られていて、物見のような役目も果たしていた。近づいてくる荷馬車の御者を視認して、出迎えに来たのである。
「紅玉!」
荷馬車を止めるとそこから飛び降りて駆け出す。海紅玉の隣には青い服を着用した青年も居て、炎玉は彼に向かって身軽に跳躍してみせたが、それを受け止めたのは彼女にとって不本意なことに、陳菫玉であった。
「菫ちゃん? 居たのか?」
勢いがありあまって炎玉に潰されたのは、彼自身も小柄で非力であるせいだが、これがいずれ解消されるかどうかについては、今のところ誰も判らない。
「さっきから青玉三哥の隣に居たじゃないですか、炎玉三姐。痛たたた。子供じゃないんですから……」
その紫がかかった瞳に映ったのは青玉と紅玉の兄妹だけだったらしい。焦茶色の髪の持主の関心がどこに向いているかを如実に示した結果、と言えなくもないかも知れない。
「お前に受け止めて欲しいと頼んだ憶えはないぞ」
受け止めて貰ったお陰で本人は怪我一つない。少々菫玉にとっては理不尽ながらも、憤慨したような顔が綻んだのは、青服の青年の手がそっと差し伸べられたからだろう。
「炎玉三姐、お帰りなさい」
語尾に微かに籠もったような響きがある声とともに、にっこりと微笑む。その笑顔に、一瞬ぽーっとなりつつも「ただいま」と首の辺りに抱きつこうとしたが、その前に紅玉からも手が伸びていて、結果炎玉は親友に抱きつく結果になった。まあそれはそれで致し方ないというか、順当なところであるといえるだろう。
「おかえりなさい、おつかれさま」
ふわりとした微笑と鈴のような美声が、故郷に帰ってきたことを実感させた。
「……ただいま。……」
長い旅路を労わるように、白い繊手がそっとその小さな、それでいて逞しい肩を抱いた。
「風家には報せを出しました。今日あたりご使者が到着されると思います」
窓から吹き込む風を受けつつ、海青玉がそう言ったのは、旅支度を解いた炎玉が落ち着いて、居間に戻った時だった。湯あみを済ませさっぱりすると、紅玉の用意した着替えがあった。その心遣いに感謝しつつ、袖を通す。いつもと同じように体にぴったりと寄り添うような着心地は、紅玉の濃やかな心遣いそのものに似ていた。
「ああ、やはり偽者か」
察してはいたものの、確証がなかった。いくらなんでもせいぜい十代半ばとしか思えないこの容姿で二十二歳というのはありえないだろうと思っていたせいもある。だが、後刻その認識が微妙に間違っていることを炎玉は思い知ることになるのである。その日、辺りが暮れはじめる頃、その若者は海邑に辿り着いた。馬に乗り従者を数人程従えたその人物は、「風維王」を名乗っていた者と瓜二つだった。
海邑の館の広間で、風家からの使者である灰色の髪、紺碧の瞳の主は、礼儀正しく海家長老に相見した。
「風維王でございます」
炎玉が連れてきた捕虜と同じ髪の色、瞳の色で背格好もほぼ同じに見えた。
「この度はご迷惑をお掛けしまして、誠に申し訳ございません」
深々と頭を下げた様子に恐縮する色もなく海天祥は視線をそっと青玉へと向けた。一礼して、隣室に控えていた捕虜を連れてくる。重罪を犯す寸前で炎玉が止めていなかったら、風家はかなり危うい立場に追い込まれていた筈だった。
「……」
無言なままの捕虜は項垂れて、目を合わせようとしない。先を促すように長老が静かに問い質す。
「維王殿、良く似ておられるがこの者は……?」
「はい、私の双子の妹、維行でございます」
並んだところはどちらがどちらか判らなくなるほどに良く似ていた。しかし、並べて見比べて初めて判ることもある。ほんの少しの差ではあるが、兄の維王の方が背が高くもう少し骨ばっていたし、妹の方が全体的に丸みを帯びた体つきをしていた。
「どうしてこのようなことを目論んだのかについては、風邑にて詮議したいと存じますが、宜しゅうございますか?」
質問の形をとってはいても、それは確認に過ぎなかった。元より、風家のものを海家の者が勝手に詮議することは好ましいこととは思えなかったし、これを表沙汰にすることは岳家・峡家・洛家も望まないだろう。
「異存はない。ただ」
流石に年の功とは言ったものである。眼光に鋭さを増して、威圧するかのように長老・天祥は念押しをした。
「納得の行く事後処理を望む。文書にすれば後始末が心配であろう。それが残ることは懸念ともなる。だから、後日維王殿が再度来邑し事後報告するということにして頂きたい」
父親である邑主が本来は出張るべき局面であるが、流石に邑主が動けば大事になる。そして、この場合の最高責任者として維王を名指しし、その結末をきちんとした上で出頭せよというに等しいそれは、一歩間違えれば恫喝とも言えたが、事を起こしたのは維王の身内である。それに逆らうよりは意見を容れる方がより順当であると言えた。
「お心遣い、恐縮に存じます」
言葉と形だけはきっちりと、だが恐縮しているとは全く思えないさまで、風家の嫡子は深く頭を下げた。
兄の監視下に入ったことで、風維行は枷を外された。明日には風邑に兄と共に戻ることになるが、とりあえず鍵のかかる一室へ監禁されることになった。他邑からの客人が来たとなれば通常は歓迎の宴となるものだが、今回は流石に事情も事情ゆえそういう訳にはゆかぬ。いつも以上に静まり返った本館の自室で、炎玉は出窓に腰を掛けて、外を眺めていた。既に陽は沈んで、月明かりが鏡湖を照らしている。昼とはまた違った静かな光は、青玉の隣に佇む紅玉を思わせた。その時、開いたままの扉の内側を二、三度叩きながら、声を掛けてきた者がいる。
「炎玉殿。少し宜しいだろうか」
灰色の髪と紺碧の瞳。その容姿は似てはいるが、見慣れると識別は比較的容易であった。肯いて、出窓から降り先に立って歩き出す。神殿か、湖の畔が良かろうと思ったが、より「人に聞かれないことを理解させる」場所として、焦茶色の髪の主は湖畔を選んだ。背の低い草がみっしりと繁茂してはいても、人が隠れることが出来る場所がないことが、一目瞭然の場所である。
「ここなら人に聞かれないことをご理解頂けるだろう」
「……ご配慮、深く感謝する」
一拍の間が空いたのは、人払いをする必要がない場所を先に提示されたからだろうか。辺りを窺うようなさまを示しつつも、徐に口を開く。
「この度は炎玉殿のお陰で表沙汰にならずに済んだ。それに感謝して、父がお礼をしたいと申している。何かご希望があったら、教えて頂きたい」
「要らぬ」
一瞬の躊躇もない即答に、それまで軽い薄笑いを浮かべて鷹揚に構えていた風家の嫡子は、戸惑うような顔をした。実年齢よりも若く見える顔が、更に幼く見える。
「私は岳孔昭の為に計らったまでのこと。そうでなかったら、未遂といえどとうの昔に役所にでも突き出している」
それはあまりにもきっぱりとした物言いであった。鮮やかといえる程に。
「自身の監督不行き届きをそうやって誤魔化したいのだろうが。付き合う義理は私にはない。だが」
欺瞞を指摘されて、風家の嫡子は目の前が真っ暗になったが、続いた言葉に完全に色を失った。思わぬところから望んでいた答えが返ってきたからである。
「今後私の知らぬところで同じことが起こったとしても、過去の証言をするつもりはない」
岳孔昭や海家……炎玉に直接或いは間接的に関わらないのであれば、万が一維行が再犯したとしても証言はしない、という意味である。口止め料不要ということを、紫瞳の主はそういう言い方で表現したのだった。当事者の証言がないことを明言したが、同時に監督責任を明確に指摘し、返す刀でことを曖昧に収めようとする風家の体質を鋭く見抜いてばっさりと一刀両断してみせる切れの良さは、小気味良い程であった。この光景を風家のものが見て居たとしたら、その目を疑っただろう。風家の嫡子がなすすべもなく翻弄されていた。勿論、彼自身がどうしようもない最初のところで立場の不利があったけれども、本来彼は立場の悪さを覆す力量があった。
「私は言葉を覆すことはしない。それは、私を知る全てのものが保証してくれるだろう」
一諾に千金の値があるという意味を、紺碧の瞳の持主は、初めて知った。
「こんな事件をしでかした妹の先行きを心配するのは兄として、時期邑主として当然だ。先まわりしてその可能性を消しておきたい訳も判る。私は別にあの馬鹿娘の将来を潰す気はない。…まあこういうことは隠しても自然に伝わるものだから縁談に差し障りが出るかも知れんがな」
予想外の炎玉の述懐は、妹の女性としての将来を考えぬいたものだった。鋭い政治感覚を秘めつつも女性らしい配慮を示す焦茶色の髪の主に、彼は驚嘆の念を密かに抱いた。周囲に女性が居なかった訳ではない。金のある男を手玉にとって高価な装飾品をせびり、恋愛遊戯に勤しみ媚を切り売りして楽しむ。或いは主人の気を惹き安穏たる生活を保持する為に、身を飾ることに無我夢中になって我が子の養育も忘れ去る。女性とはそういう者ばかりだと思っていた彼にとって、炎玉という女性は存在そのものが不可思議であった。