銀宵――海虹外伝――
十三
抗う、という事が、これほど難しいということを、彼は初めて知った。
今回の事件の「首謀者」にされてしまった少女を、訪れたときのことである。灰色の豊かな髪を適当に束ねただけで、寛衣をゆったりと身にまとう様は、普通の少女にすぎなかった。前回見た時は痛々しい程に細い体をぴったりとした服で覆っていて、まるで少年のようにしか見えなかったが、今の彼女は普通の少女に見える。本来、彼女の出自である家柄を考えれば、煌びやかに仕立ててしかるべきである。だが、それを彼女は徹底的に拒否しているようだった。ふと、視線に気づいた少女がこちらを見た。吸い込まれそうな、という言葉がこれほどぴたりと来る状況も他にはあるまい。それは、紺碧の海の色をそのまま湛えたような、深く静かな色だった。
「いらっしゃいませ。洛様」
予め兄から聞かされていたのだろう。躊躇する間もなく用意してあった椅子を示し、傍に置いてあった器に茶を注いて差し出す。白い繊手に軽い戸惑いを感じるのは、恐らく普段彼が接している女性たちの逞しさを思うからだ。沙漠では日差しのために、そしてその乾燥のために、自然黒々とした肌を持つようになる。そして、その労働は過酷だ。他所の土地から嫁いできた女が、あっという間に肝っ玉母さんになる姿を、彼も幾度か目にしている。とは言っても、彼の母程度の身になれば、そういった雑役からは自由なのだが。
「突然お邪魔いたしまして、申し訳ございません」
「いえ……」
少女は言葉少なにそれだけを答えると、ふと思い出したかのように茶菓を差し出す。茶より先に出すべきものを、失念していたらしい。仕草だけですすめると、もう彼女の側から発すべき言葉はなかった。
「ありがとうございます。……その、今日、お伺いしたのは」
思い切って視線を合わそうとすると、戸惑うように視線がずらされた。扉は開いてはいるとはいえ、個室に異性しかも普段馴染みのない人物。別家のしかも嫡子がいるのだ。緊張しないように、と言ってもそれは難しい。
「あの…。あなたに、全ての責任を押し付ける結果になって、申し訳なく思います。と、そう伝えたくて。ご迷惑を顧みずお邪魔しました」
「それはもう、済んだことですから」
頑なとも言えるその表情からは、感情の所在を明らかにすることが出来ない。虞炎玉が彼女を拘束したのは、これ以上関与して更なる濡れ衣を着せられないようにするため、そして、黒幕の動きを牽制し掣肘することが目的だった。峡家邑内でそれを行ったのは、峡家内に不協和音が存在したことと、深い関わりがある。しかも峡邑は常時かなりの人の往来があって、その宣伝効果は抜群だった。ついでにいうなら、事態を悪化させた風維行に対する戒めの意味もあっただろう。しかし炎玉は事態の収拾に尽力したが、結局黒幕を炙りだすことまでは不可能だった。七族の人間ではあるだろう。踊らされた風姫を人身御供のように首謀者に仕立てることに対して、渋い顔をしたのは風家当主だけではない。だが、それによって黒幕に油断させ、将来的な網を張ることを検討した結果である。風姫拘束を峡邑内で派手に行ったのはやりすぎだという声もないではない。だが、その自由を奪うことは、同時に彼女を危険から少しでも遠ざけるための配慮であることを、理解し得ない程の愚者も関係者には居なかった。寧ろ、そういうやり方があったか、と唸った邑主も少なからず居たようである。ただ一人割を食った風維行だが、ある意味彼女がしゃしゃり出て来なかったらこれほどの事態には発展しなかったかも知れないので、それを口に上せるような者はいないが、これだけ状況が複雑化してしまうと、それが一番穏当であることは明らかだった。しかし、各家とも一枚岩という訳ではないし、網を張ったとしてその人物がかかる可能性は今のところ不明である。そうなると無実を証明出来るのが何時になるかは全く不明としか言いようがなかったし、風姫の軟禁状態がいつ解かれるかは予想もつかない。だが、七族の姫が一人で軽々しく旅に出ることは本来ありえないことなので、実害らしい実害もないと言えるかも知れない。しかし、洛家の次期当主は、そのまま済ませておけるような人物ではなかった。「あなたが無実なのは存じてます」と言わんばかりに風邑へ押しかけ、今の状況になっているのである。
「お気になさらず。……わたくしとて、虞様の処置に、さしたる不満はありません。それは、こちらに護送される間に細かく教えて頂きました。勿論、峡家でのことには驚くばかりではありましたが。慣れぬお芝居をするよりは、些かましだったことでしょう」
落ち着いた様子を見せる風姫は、あれほどのはねっかえりをやってのけたとは思えないほど、淑やかで、上品である。
「ところで。何故、風邑を出て虞炎玉殿に……?」
虞炎玉はいわば囮として、岳姫を拉致した者等の目を引き付ける為に行動していた。実際の奪還部隊は海家の別働隊であった。……その実情は今も不明であったが。その囮に自ら近づいたことで、風姫の濡れ衣が判り易くなったともいえるが、目立つ行動を意図的に取っていた炎玉と一緒に行くことは、関与しているという事実そのものを隠すことが出来なくなったということでもあった。洛瓊華は風姫を人身御供に立てることを最後まで消極的反対していたが、実際にそうするほかに収拾出来る方法がないと判ってからは、消極的な賛成に回った。本来無関係な人間を巻き込みたくない配慮だったのかも知れないが、元々、彼の弟が七族同士での婚姻を求めなければ今回の事態にはならなかった。それを考えると、やるせなかったのかも知れない。
「それよりも」
紺碧の瞳を伏目がちに、さぐるような視線を向けてくる。
「この度は弟君のご結婚、誠におめでとうございます」
予想外というか、ここで祝いの言葉を述べられるとは思っていなかったので、洛家の次期当主は少々慌てた。いや、それこそが風姫の意図していたところだったのかも知れない。風姫の行動をそれ以上探られないようにするための。
「あ、ありがとうございます。お陰様で義妹も徐々に洛邑に馴染んで参りまして」
当たり障りのない返礼をしていて、はた、と気づく。話題を遠ざけられたということに。
「あの、それで」
「それはようございました。気候の違う邑などに嫁ぎますと、習慣の違いなどで苦労することも多いと申しますし」
「は、はあ」
元の話に戻すのは、なかなか骨が折れそうだった。しかし、完璧な程の「壁」に、少々興味が湧いたのも事実である。これは長期戦になりそうだな、と彼は心の中でひとりごちて、風姫にまっすぐな視線を向けて微笑んだ。その視線に戸惑うような表情を見せたものの、きりりと唇を結んで灰色の髪の少女は洛家の長男に挑むように顔を向けた。その少年のような凛々しさに、赤髪の次期当主の口元が我知らず綻ぶ。それが、何の始まりであったかも、確とは意識せぬままに。
風姫が邑外からの客人をもてなしている頃、風邑に居た他家の者は、洛瓊華だけではなかった。焦茶色の髪を後頭部頭頂できりりと結んだ娘も、その頃邑主の館に腰を下ろしていた。嫡子の招きは適当に誤魔化しておくだけのつもりだったが、結局風姫護送の手伝いということで借り出され、そのまま風家兄妹に付き合わされて邑まで到着すると、その後は毎日のように嫡子からの訪問を受けている。一応、招待のこともあったし相手の体面もあるだろうと、二、三日滞在するのはやむを得ないとは思っていたが。一日また一日と何かと理由を付けられては滞在を引き伸ばされるのと、風維王の何とも奇妙な会話に付き合うのは、流石に少々苦痛になっていた。
「炎玉殿、風邑をご案内しても良いと思うのだが」
心の中で「しても良い」というのはどういうことだ、と突っ込みつつ、表情に出してはいるものの、口に出すのは別である。
「いや、別に案内は不要だ。散歩ならひとりでするし、他家の者が邑内を見てまわるのはあまり歓迎されることではないだろう。それくらいは私とて弁えている」
「それでは剣の稽古の…」
「不要」
最後まで語り終えないうちに、鋭く拒絶するような視線と、にべもない返事が返ってくる。二の句がつげない、というのは紺碧の瞳の少年にとっては、あまり愉快なことではないはずだったが、それでも犬のようにまとわりついてくるのは、いっそ微笑ましいといえるかも知れない。まとわりつかれている本人がどう思うかは置くとして。
「それよりも」
珍しく炎玉の側から振られた話題に、風家の嫡子が目を細める。
「金鈴のこと、調査は進んでいるのか?」
それは、岳姫拉致事件の際に、現場で花嫁の侍女が握っていた鈴である。 花婿となった洛家の次男坊によれば、「洛家の人間なら誰でも持っている」ものだそうだが。
「いや、洛家の鈴とは全く別のものであることまでは判ったが」
何故それがそこにあったかというと。
「偽装」
鋭く発せられた言葉に、灰色の髪を後ろで束ねた少年は、思わず息をのんだ。そもそも、大切なものであるなら、必死になった花嫁の侍女に奪われてしまうようなところに下げておくなど、解せない。だとすれば、初めから取られるように仕組まれたという方が説明がつく。それで、炎玉はその調査を風家に依頼していたのだった。
「洛家の鈴とは金属の比率が異なることまでは断定できたが、どこで作られたかとなると」
そこで両手を軽く挙げる。お手上げだ、と声に出さずに道化めかしてみせる様は、嫡子という身分にはそぐわないが、その年齢を思えば年相応と言えるかも知れない。
「金属比率の成分表はあるか?」
焦茶色の髪の主は、真剣な眼差しでそう問いかけた。その強い輝きを放つ紫がかった瞳に、少年は思わず怯んだ。理由も判らぬままに。
「いや、鈴を潰したわけではないので、細かい成分表までは」
「ある程度判ればいい」
間髪おかず発せられた言葉は、恐らく少年の返答を予測していたのだろう。
「維王」
その声で名を呼ばれたことに、紺碧の瞳が驚愕に見開かれた。そしてそれが初めてだということに気づいた。頭が真っ白になった、といわんばかりの表情に、舌打ちをしつつ続けられた言葉は、少年を危うく気絶させるかと思われた。
「成分表を出す気があるか? それを私に寄越すなら、滞在の間に案内を受けよう。剣の稽古の相手もしてやろう。どうだ?」
にやりと笑う仕草は淑女には相応しくないかも知れない。だが、それは虞炎玉という人間には、この上もなく似つかわしい笑いだった。