銀宵――海虹外伝――
五
乾いた埃を含んだ風が、旋風を巻いている。淡い土色の風は、水気のなさを証明していた。事実そこには、荒涼とした空気以外のものはない。水を落としても忽ちの内に蒸気となって消える。沙と岩だけがどこまでも続くそこには、定住するための建物を作ることに意味をなさなくなる。故に、天幕を張って住居とする。勿論、移動式住居であるから、長く居住するには向かない。よって、その場所もほんの少しずつではあるが、時折移動する。その名を、洛邑という。伽国七姓の一つの家柄である洛家の本拠地である。それは、伽国を支えるべき貴族という身分からすれば、あまりにも質素に過ぎる邑であった。しかしそれとて海邑よりも規模は巨大である。
洛家では、まもなく婚儀が行われることになっていた。洛家当主の次男である洛瓊琚と、七姓の家である岳家当主の長女岳孔昭との縁組である。家の格からすれば見事に釣り合っているといえるが、本来伽国では七姓同士の家が婚姻を結ぶことは許されてはいない。しかし当主の跡目を継がない者に限り、お目こぼしが与えられる。それについても、伽国国主つまり王の認可が必要となる。岳家から花嫁を連れて王の御前で許可証を得、その上で洛邑に戻って婚儀を行うのだ。岳家から洛家に直接来るだけでも結構な道のりを、一旦伽都豫まで行かねばならぬのはかなり面倒ではあったが、手続きを踏まずに勝手に婚儀を行ったとなれば、咎めを受けかつ謀反のそしりを免れない。いや、結婚そのものを合法と認めてもらえなくなる。形式を踏まねばならぬときもあるのだった。
次男坊が嫁を迎えに行って、早くも三月が過ぎていた。そろそろ日が沈む。衣の上から頭布を深めに被った人影が、もの慣れた様子であまり大きくはない天幕の中へ入る。胡坐をかいて、頭布をそっと外すと、赤銅色の頭髪を軽く振った。碧瞳は射る様な鋭さの中に、何かを達観したような光を宿していた。
「戻りましたか」
天幕の外からそっとかけてくる声があった。柔らかい、女性の声である。慌てて居住まいを正す。それだけの身分の人物なのだろう。
「瓊華殿」
「これは、義母上」
義母上と呼ばれた人物が静かに天幕の中に入ってきた。頭布で表情は然程良く見えない。だが、そこに存在するだけで、場が華やぐような空気を纏う人であった。身なりも、飾り気こそはないが、仕立ての良いものを違和感なく着こなしているのが一目で判る。わざわざ立ち上がろうとする義子を軽く手で制し、そのまま下座にかけようとする。
「長く話しこむ訳ではありませぬ。このままで」
「しかし!」
ほほ。と指を口に当てて笑って見せる。目尻に皺が刻まれてはいるが、その軽やかな笑い声には若さがあった。対する義子にはあまり余裕はなさそうである。それは、どんな時にも礼儀を優先させるようきっちりと躾けられている者が、それを上位者の命令により遂行出来ずにいるためと思われた。
「なるほど、融通がきかぬとは良くも言われたものじゃ」
からからと明るい笑い声は、この天幕では長らく聴かれぬものであった。天幕の隅にもその笑い声が届くと、そこに明るさが生まれたような気さえする。朗らかな笑い声が、耳に心地よく届く。こんなのはいつ以来だったろうと瓊華はふと思念を巡らせかけて、慌てて義母に目を向け直す。何か用事がなければこのような場所に来るとも思えない。
「わざわざのお立ち寄り、誠に恐れ入ります。それで、何か」
「いえ、大したことではありませぬ。ただ、瓊華殿のご機嫌伺い。とでも申しましょうか」
その為にわざわざ来たというには、あまりにもな言葉であった。確か、義母が使う大天幕は洛邑中央部にあり、周辺部のしかも一番外縁部に近いこの天幕のあたりまで来るには、かなりの時間を要した筈だ。
「……確認の為の、ご訪問なのでしょうか」
「そうかも知れませぬし、そうでないかも知れませぬ。時に」
促すような義母の言葉に、ふと視線をそちらに向ける。緊張故に、眉根が寄るのは是非もない。
「おお、怖。お茶など一杯、頂けませぬか」
大して怖がっているようにも見えないが、義子は礼儀正しくその言葉を黙殺した。
「これは失礼致しました。すぐに」
手際良く、茶の用意をはじめる。すぐに去ると言っておきながら茶を要求する矛盾について考えかけたが、だがその成果をこの義母にぶつけられる筈もない。
「どうぞ」
義母にすすめ、自分の前にも同じように椀を置く。白い指先が茶器をそっとつまんでそっとあおる。本来は招かれた側が招いた相手に対する信頼の証として行う仕草である。それが終わらぬうちに、義子もまた、茶器をあおった。信頼の返しという訳である。
「良い飲みっぷりでいらっしゃること。酒でないのが、いっそ残念」
そういってまたころころと笑う。白い指先を口の辺りに添えた様は、七家の一つ洛家当主の妻として相応しい気品を備えていた。
「父上は、相変わらずですか」
この女人に付き合っていたら、いつまで経っても話が進むことはないだろう。半ば諦めかけていることではあるが、じっと黙っているよりは少しは進むに違いない。
「ええ、相変わらず若い女性がお好きなようで。ほほほ」
自らの夫であるということは考えていないのかも知れない。もっとも、夫の女性関係にばかり頭を使っていては、当主の妻は務まらぬだろう。それでなくても多事多端な身分なのだ。
「ところで」
義母の目がそっと静かに光って見えた。微笑んだ顔を崩すことはないが、印象ががらりと変わる。
「あなたの弟が、妻を迎えます」
「はい」
「あなたは?」
畳み掛けるような言葉には、一片の容赦もない。さっさと身を固めろということなら、すでに何度も言われていた。しかし。
「私のような数ならぬ身のものに、嫁いできてくれるような娘など、おりませぬ」
半ばほどは、嘘である。父は七姓洛家の当主なのだ。
「哥であるあなたが妻を迎えねば、あの子とて格好がつきますまい」
ぐ、と詰まりかけたところに、更に追い討ちがかかる。
「そうそう。あなたの弟を当主に就けたがっている者たちがおりましたね」
いきなり予告もなく転換された話題に一瞬思考が斜めに飛びかける。
「……はい」
側室の子である自分を疎んじ、正室の子である弟を当主にと推している者たちがいた。特に徒党を組んで何かをしようとしている訳ではないが、今回弟が唐突に決めた婚儀に不満を募らせている輩は多い。その不満が爆発せぬかどうか、天幕の主はそれをずっと心配していた。弟もそれを気がかりにしていたらしく、出発前夜この天幕を訪れていたのである。
「どうも、動いたらしゅうございますよ」
「え。……それは、どういう」
追いすがるように掛けた言葉も、義母には届かなかった。言いたいことは言ったとばかりにさっと立ち上がり、あっという間に天幕を出て行った義母の後姿の名残を見つめながら、彼は深く重い息をひとつ、吐いた。弟の結婚相手は岳家当主の娘である。弟がその姫を選んだのには、意味があった。それは、たとえ周囲が反対したとしても、七姓の家であれば、そう簡単に危害を加える訳にはいかないからである。危害を加えたが最後、岳家当主の怒りを買い、返り討ちにあってもおかしくはなかった。それを敢えて侵そうとするものがいるとは、彼には到底思えなかった。だが、義母の言葉に虚妄があったことは今までない。先に待ち受ける労苦を思って、彼は再び重い溜息をついた。
義子の天幕から出ると、空を見上げた。深い藍色の空に、銀沙を撒いたような星が広がっている。
「ここまで押してやらないといけないなんて、本当に駄目ね。あなたの哥上は」
少し楽しげな声でそう呟いて、近くに繋いでおいた駱駝に乗った。
「さあ、寒くなってしまう前に帰りましょう。旦那様の夜伽をする必要はもうないけれど、主婦としては家の管理はきちんとしなくてはね」
それに呼応するかのように駱駝が重々しく鳴いた。
どこかに連れ去られた岳孔昭の手がかりを求めて、岳家はその持てる力を総動員して調査に当たっていた。満遍なく展開されたそれはある意味水も漏らさぬものと言えたが、虞炎玉に言わせれば「無駄な戦力配分」ということになる。その指揮を取ったのは岳孔昭の兄である岳孔嘉であった。焦茶色の髪の持主からすれば「愚鈍にして鈍重」な最悪なる人事である。だが、岳于飛が心労で倒れた今、当主代行として動けるのはその嫡子である彼しかいなかった。逆に岳孔嘉という人物であったからこそ、その力を「満遍なく展開」せざるを得なかったとも言える。それを知ったら孔昭の親友である人物が重い溜息を吐くのは必至であるが、最初からあてにしなければいい。とでも言うかも知れない。しかしそれでも、それなりの精度の情報が幾つか集まっていた。その一つが、見慣れぬ荷馬車である。
その荷馬車は、猛獣か何かでも護送しているような風情だった。という。停車していた時間は長くはなかったが、時折じゃらじゃらと鎖が鳴るような音を聞いた者も居た。その荷馬車を見ていたものは多くはない。だが、その荷馬車の停まっていた辺りに、銀糸が落ちていたことに気づいたものは更に少なかった。その銀糸には、赤い小さな布片がついていた。布がなかったら、銀糸は見過ごされていたに違いない。その布と銀糸を見た孔嘉は、「あっ!」と声をあげた。その銀糸は妹の毛髪であり、赤い小さな布片は婚礼衣装の一部であったからである。赤の布自体は別に珍しいものでもない。だが、岳家婚礼用の衣装の布は、少々特殊な糸で織られていた。光沢も糸の細さも織も一級品のそれは、七姓のみに許されたものである。恐らくは監禁されて不自由な身でありながら、何とか自分への手がかりを落として行こうとしたのだろう。一つ間違って、赤い布片がこちらの手の者に届く前に拉致した者達に知られたら、岳家から出る花嫁がかなり危険な立場に追い込まれるのは疑いの余地がない。
「しかし。やることが大胆だよな、あいつも」
親友である人物の影響力の凄まじさを目の当たりにして、岳家次期当主候補(予定)はそっと笑った。
「お淑やかなだけだったあいつが、随分変わった」
以前のままの孔昭なら、うろたえて何も出来ずにただ拉致されていくままだったろう。それが、自分の居場所を発見してもらうために最大の努力を払うようになった。身の危険は承知だろう。だが、それでも為さねばならぬときに為す一手を間違えることがあってはならない。妹の身を案じながら、彼は花嫁が残した手がかりを見落とすまいと、その蒼い瞳を凝らした。