銀宵――海虹外伝――
四
岳邑を出て、早七日が経過しようとしていた。花嫁行列は、ゆっくりと、しかし確実に伽都へと進んでいる。人目も都市に近くなるに従って増えることも手伝って、普段のように活発な言動が「花嫁」には許されない。いや、行列翌朝に少し活動的な口調を宿舎の中で発したものの、それ以降は寡黙にして従順な「花嫁」に徹していた。それは「花嫁」を演じている虞炎玉には苦痛だろうと「花婿」はくすりと笑う。その「花嫁」の姿をふと振り返る。本来なら洛家で正式の婚儀を挙げるまでは、実家である岳家の衣装を洛邑まで着用していても良いのだが、炎玉は岳邑を出発してすぐの昼には既に洛家の衣装を身にまとっていた。理由は単純である。岳家の衣装では顔も髪も皆まる見えになる。しかし洛家の衣装は普通に着ていさえすれば、それだけで顔も姿も十分以上に隠れてしまうのだ。「身代わり」を務めている者にとって、まさに今の状況に打ってつけの衣装であるといえる。「花嫁」はその衣を目深に被り、口数も日毎に少なくなりつつある。本来の花嫁岳孔昭とてこれほど無口ではない。だが、今は無口な「花嫁」でいるほうが、問題は少なかった。その顎が、数日前より少し尖った印象を与えているような気がしたが、流石に「花嫁」も疲れているのだろう。と頭を振ってその考えを払った。
見上げると、薄い色をした青空が、高く見えた。上空を鳥がゆっくりとまわる。目深に被った布を少しだけ持ち上げて鳥を確認すると、左手を高く空に掲げた。鳥はそれを待っていたのだろう。一直線に降りてきて、それに捕まる。しかし勢いと引力のお陰で、小柄な旅人は鳥に引っ張られるように体勢を崩した。転ぶ寸前で止めることが出来たのは、多分平衡感覚を鍛えた成果か、若しくは単なる幸運のおかげかも知れない。
「ありがとう」
鳥は、まだ若い鷹である。右手で腰に吊るした袋から干し肉を取り出して鷹に与えると、足につけられた通信筒から手際良く手紙を引っ張り出す。鷹は旅人の肩の上で休憩を取りつつ、上手に干し肉を平らげていた。文面にさっと目を通すと、裏に返事を認めて通信筒へと戻す。
「頼んだぞ」
一声上げて鷹は空高く飛び立った。その様子を、少し離れた場所から見ていた人影がある。鷹の飛び去る方向を確認すると、歩き出した旅人の様子を注意深く凝視していた。
「行くぞ、月鬼、日鬼」
低く抑えたような声が響く。その傍らにいた大小二つの影が、ゆっくりと動きだす。大きな影の上に飛び乗った小さな影は、それを踏台にして声の主の肩へと上った。首の辺りが暖かくなるのを待って、観察者は歩き出した。旅人が、過ぎ去った方へと。
儀式の支度が済んで、天幕を出ようとした時だった。突然声が出なくなり、闖入者に気絶させられて、今自分がいる場所すら把握出来ていない。そこが生まれ育った場所ではないことだけは判ったが、両手両足に枷を嵌められ、目隠しをされて、荷車のようなものに転がされて運ばれているのに気づいたときは、流石に肝が冷えた。だが、ふと肌に感じる微かなものが、彼女を不安からそっと救いあげた。
「私がお前を守る。だから、心配するな」
温かい紫色の瞳の主は、そう彼女に言ったのだった。約束を違えたことのない、親友である。前方に立ち塞がるものは小さくはないが、小柄な身でそれらを打破する力を持つ人だと、彼女には判っていた。
「食事だ」
扉が開き、くぐもったような声が聞こえた。食欲を刺激するという程ではないが、空腹の身には十分に威力を持つ香が漂った。食事の時は目隠しを外される。手首の枷は鎖で繋がっているが、食べる間はその場所は彼女一人になっているようだった。人質に姿を見られることを避ける為だろう。だが、彼女が逃げないように小さな窓から監視されていることは理解していたし、とりあえず従順を装っておいた方が隙も出来るだろう。何より、体力を温存して置かねば、何れ助けが来たときに、動けない。彼女は与えられた食事を、いつもと同じ優雅さで、ゆっくりと口に運んだ。味や料理の質は格段に落ちるが、それによって自分の行動の質を落とすとしたら、それは食事そのものに対して、誠実ではない。じゃらじゃらと鎖が音を立てる。その音は、ずっしりとした重さを感じさせつつも、どこか音楽のような響きを持っていた。
「待ってる」
力を失っていない瞳で誰にともなくそう呟いて、彼女はひっそりと微笑んだ。
伽国の南方には山岳、西には湖沼が広がっていて、このあたりはその中間である。比較的温暖かつ湿潤な気候であるといえた。木造の家屋は、どっしりとした構造で、平屋ではあるが屋根は極めて高い。湿潤な気候には木造が最適だとして、古い時代の邑主がその建築を選んだと言われていた。事実、屋根が低いと気温は上がり易い。冬は寒いが、夏はたいそう涼しいので、夏季に適した、というよりは特化したと言った方が正しいような建築である。この構造が思い切り裏目に出る冬は、天井部分に一枚板を置いて屋根裏と仕切るという方法で、空間を小さくすることによって暖房効果を上げる工夫をしていた。ただし、隙間を少し作って空気の流れを妨げないようにもしている。
「ええい。まだ到着せぬのか」
苛立たしげな声を上げたのは、赤髪に黒瞳を持った壮年の人物である。色彩を考えればかなり派手といえるかも知れないが、余裕のなさが傍目から見ても酷く判るほどに、焦った表情を浮かべていた。程々に蓄えられた髭は頭髪と同じく赤だが、頭髪よりはややくすんでいて、もさもさとした印象を見るものに与える。それは、十分な手入れをしているようには見えない。それとも、手入れをする余裕がないということなのかも知れない。
「落ち着かれませ」
ゆったりとした様子で窘めるような声を発したのは、同じ赤髪に黒瞳の、しかしもう少し若く見える人物であった。年齢は一回り程度は確実に下だろう。しかし落ち着いているせいか、容貌はともかく態度は年齢が逆転していてもおかしくなさそうだった。
「これが落ち着いていられるか!」
吐き出すような言葉にも、余裕のなさがにじみ出てきているようだ。
「そう慌てなくとも、すぐに到着しますよ」
青年は相手の焦燥ぶりをじっくりと楽しむかのように、妖艶に微笑む。それは、異性ならずとも赤面してしまいそうなほどに、蠱惑的であった。息も絶え絶えの鼠を弄ぶ猫にも似た冷酷さが、その表情の中に垣間見える。髭の主はごくり。と唾を飲み込むと、ようやく落ち着いたらしく、ゆっくりと息を吐いた。
「しかし攸除よ。これが露見すれば、我らもただではすまぬ」
攸除と呼ばれた青年は、軽く目を細めた。それから表情を一新するかのように一旦瞳を閉じ、静かに開く。
「大丈夫ですよ、伯父上」
にっこり微笑みながら口にしたのはそこまでで、あなたが余計なことさえしなければ、ね。という言葉を青年は心の中で付け加えるに止めた。高い空では鳶のような鳥がゆっくりと旋回している。遠くから響くような鳴声だけが、二人の間にそっと響いた。
ここ三日程、背後に気配を感じていた。後をつけられていることに気づいたのは、従属物のせいであるが、それがなければ気づかなかったかも知れない。悪意も善意も感じられないが、それは追跡者の性格ゆえなのか、それとも気配とともにそういったものまで消しているのかは、判らない。単に観察されているだけなのかも知れないとも思ったが、現況でそれを信じることが出来る程、楽観的にはなれなかった。先を急ぐ旅でもあるし、不安要素は消しておきたい。音を立てず、気配を消して、少し離れた場所から観察をする。追跡者は慎重かも知れないが、従属物には隙がありそうだ。と観察して、一旦火の傍に戻る。その懐から小さな布袋を取り出した。布袋の中には細かい紙袋がいくつも入っていた。そのうちの一つをそっと取り出して、焚火に静かに投げ入れる。と、旅人はそこから再び離れて、様子を観察すべく闇の中に身を隠した。
効き目が現れるのに、少し時間が掛かるかと思ったが、その心配は不要だったようである。程なくして従属物が突進してきた。小山ほどとは言わぬが、中々に立派な体格をしている。毛皮はふさふさとして、銀色に輝くように見えた。その銀色の毛皮が焚火の中に飛び込む。その仕草は与えられた玩具に擦り寄る猛獣に似ていた。毛皮が焼けるだろうか、と他人事ながら旅人がふと思ったとき、金色の小さなものが銀色の毛皮に飛びかかった。毛皮に移った炎を消そうとしているようだ。それに続くように、人影が走り寄る。
「月鬼、日鬼!」
銀色の波が、月に照らされて揺れた。と見えた。癖もなく風に流れるそれは、追跡者の頭髪であった。顔の辺りは良く見えぬが、きりりとした顎の形は整っているように見えた。ほっそりとした体躯はしなやかに動き、月鬼、日鬼と呼んだものを焚火から救おうとしている。旅人は、漸く追跡者の姿をその目で見る事に成功したのであった。
焚火そのものは、元々大きくはなかったし、既に鎮火しつつあったので、銀色の毛皮のものも殆ど火傷をせずに済んだ。ただ、灰に目一杯顔を突っ込んだ為に、灰色の毛皮になっていた。それは金色の小さなものや後から現れた追跡者も同様で、煤と灰を頭から浴びたようになっていた。その様があまりにもおかしかったので、旅人はつい声をあげて笑った。
「誰だ!」
追跡者は既に自分の追いかけていた存在の事を失念していたようだ。声に出してそう叫んでから、しまったという顔で口を閉ざす。暗がりから旅人が現れたとき、その鮮やかな程に紺碧の色をした瞳だけが、少し細められた。
「灰色の髪、紺碧の瞳…。風家のものか? 私を追跡していたのはどういう訳か?」
「……別に追跡していた訳ではない。ただ、同じ方向に用事があっただけだ」
嘘をつけぬ性質なのかも知れない。微かに目線を逸らして、口ごもった様子は、まるで子供のようだった。事実、子供のような姿をしている。細く尖った顎はもう少し肉を与えて丸みをつけた方が良さそうである。上背もあまり大きいとは思えないが、その体の線の細さと言ったら、少女と言っても通用しそうな程である。
「二日も三日も同じ方向とは、私も舐められたものだ。先を急ぐゆえ、あまり構ってもやれぬのでな。正体だけは確認させて貰ったことだし、ここからは誰ぞ別のものの後でも追跡するが良い」
ぐ、と言葉に詰まったように眉を歪める。その様があまりに可愛らしく見えて、旅人はひっそりと笑った。
「何ぞ言い訳があるなら、言ってみよ。私も木石ではない」
そう言って頭布をそっと下ろす。焦茶色の髪を後頭部の高い位置で一つにまとめた旅人は、紫色の瞳に柔らかな色を浮かべて問いかけた。
「そなたの名は? 風家の者よ」