銀宵――海虹外伝――
六
「名前を訊ねるなら、先に名乗るべきだろう」
拗ねたような物言いではあるが、一応筋は通っているだろう。生家を既に特定され、反抗する意志はなさそうだが、少々釈然としないものを感じているのかも知れない。
「ふん。まあ良かろう。私は虞炎玉という。海姓五家第四姓の出だ」
踊るような紫色の瞳が、好奇心を満たして追跡者を見下ろしていた。とはいっても、発言者はかなり小柄なので、見下ろした角度は威圧感を与えるほどのものではない。
「……風維王だ」
吐き出すような言葉は、溜息にも似ていた。癖の少ないさらりとした灰色の髪は、首の後ろあたりで一本に束ねられて、多少持主が頭を振ったくらいではなびいたりしない。しかし額に掛かった前髪の一部は、その動きにゆっくりと従って揺れ、そして戻った。
「何故私の後を追尾した?」
瞳は笑っているが、炎玉の小柄な身体には隙がない。それを睨むような目で見ていた紺碧の眼の持主は、暫時の沈黙のあと、再びゆっくりと吐き出すように、その唇から零す。
「場所が判らなくなったんだ」
あまりといえばあまりの言葉に、一瞬思考が停止した。と言っても、誰も咎めはすまい。犬が飼主の飛ばしたものをとって拾ってくる程度の時間がのんびりと経過したのち、焦茶色の髪の人物はあっけに取られたような顔はそのまま、漸く言葉を紡ぎだすことに成功した。
「……なんだと?」
意外といえば意外な返事に、再び間が空いた。紫色の目を丸くしつつ、先を促すように視線を送ると、厭々ながらもぽつりぽつりと語り始めた。つまり、維王は迷子の達人だったのである。
「では、試みに問うが。その従属物どもは、お前の方向感覚を補う為のものではないのか?」
銀色と金色の毛並みを持つ二匹は、維王の左右にちょこんと座っている。銀色の毛の獣が月鬼、金色が日鬼だと維王は言った。大きさは大分異なるが、片方が猫に近い動物で、もう片方は犬の眷属であるように思われた。
「月鬼と日鬼は…、愛玩動物であって、家来じゃない」
挑むように見つめ返してくる瞳は中々に強い光を持っていた。だが、言ってる内容は要するに道案内役としてはこの従属物達が役に立たないということである。
「……せめて、役に立つものを旅には連れ歩け。お荷物になって足を引っ張るようでは、お前の命が危なかろう」
仕掛けた側が言うのもおかしなことだ。と思うのは、その滑稽さが際立って見えるからである。現に、月鬼は炎玉の罠によって引きずり出された。そのまま後を追いかけてきた日鬼や維王ともども拘束し、必要であれば後顧の憂いを断ち切る為のあらゆる行動も考えていたし、実際それは、難しくはなかった。ただ、害意があるともないともつかぬままであったし、何より余計な恨みを買って却って面倒な事に巻き込まれるのは避けたかったので、状況を確認することを優先させただけである。
「俺が育てたんだ。放り出す訳にはいかない」
「……なるほど」
そこで深く肯きながら、焦茶色の髪の持主はにんまりと笑った。
「つまりお前はだ。役にも立たぬその愛玩動物とやらを旅に連れて歩いて、しかもその行動に振り回されて、居場所を見失った。と。そういう訳だな?」
「ななな。そんなことはない。月鬼も日鬼も鼻を駆使して地図だの磁石だのを探してくれたんだ。こいつらばかりが悪い訳じゃない」
更に微笑みを深くして、追い討ちをかける。
「そう、つまり管理責任者が無能だからだ。そういう責任者に飼われた動物はいっそ哀れだな。本来役に立つべきところで立たぬものになる。そもそもこのちっこいのが」
ひょい。と日鬼の首根っこを捕まえる。
「何をする!」
「犬というのが、良くない。犬は大型なものの方が旅では役に立つだろうに」
「それは……そうだが」
「しかもこっち」
月鬼へ向って顎をしゃくる。
「大型の猫というのは扱いが厄介なんだ。血の味を憶えたら人を襲うことだってある」
割合は高いかどうかは不明だが、人を食う猫科の大型獣が時折出現することも知られている。しょげ返った維王は、哀れな程に小さく見えた。空中に釣り上げられたままの日鬼はその姿を見て必死に足をバタバタさせる。月鬼は訳が判らぬままに炎玉を睨み、主に身を寄せて庇うかのように一歩前へ出た。
「まあ馬鹿な子程可愛いというしな。その気持ちは判らぬでもない」
そう言うと紫色の瞳をそっと伏せて、日鬼を元の場所へ下ろしてやった。金色の毛皮の塊が、維王の膝下にじゃれ付く。元追跡者は驚いたように少し目を見開いて、炎玉を見つめた。
「で」
話題を切り替えるかのように、表情も先程とは全く違う、冷たいものになっている。その表情に灰色の髪の主はごくり。と唾を飲み込み、呟くように告げた。
「峡邑へ行く」
相手が何かを言う前に、鋭く切り込むような声がそれだけを告げると、維王は押し黙った。炎玉もまた口を噤んだが、それは紺碧の瞳の少年が言った地名のせいである。「峡邑」。それは、海家を含む七姓の一つ峡家の本拠地であった。七姓とは、この伽国で最も勢力を持つ貴族である。岳家、洛家、そしてこの少年の生家である風家もまた七姓に連なる。虞炎玉が属する虞家は、海一族に入るが、細かく言えば海本家ではなくそれを支える家柄である。一般的社会的序列を考えれば、炎玉はこの少年よりも遥か下の席次に着くことになるのだ。しかし社会的序列はどうあれ、当然ながらそれが一個の人間としての価値を押し上げたり押し下げたりする訳ではない。
「お前も…峡邑に行くのだろう? 俺は峡邑に行きたい。行かねばならん用事があるのだ。連れていけ。いや、連れていってくれ」
その紺碧の色をした眼には、切羽詰まった何かがあるように見えた。
「断る!」
冷たい視線はそのまま、紫の瞳に怒りのようなものを潜ませて、突き放す。それは、維王が連れている従属物の為に、炎玉自身にも火の粉が飛んでくる可能性を考慮したためだろう。実際、旅の間には思いも寄らぬ出来事が起こり得る。連れ去られた花嫁を救出するだけなら、炎玉一人でも何とかなるかも知れないが、足を引っ張るだけの同行者が居ては、それも叶わぬものとなるだろう。
「では…、この伽国で起ころうとしている陰謀を未然に防ぐ為と言ったら?」
「……何だと?」
焦茶色の髪がそっと風に揺れる。その髪の主の瞳を真正面から見据えながら、薄い唇が少し口ごもりながらも、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。それを聞きながら、紫色の瞳が次第に驚愕の形に見ひらかれた。
のんびりとした風が湿り気の多い空気を撫でる。飛ばすほどの勢いはないが、湿気を籠もらせることはない。のんびりした空気を破るように靴音も高く現れたのは、黒く艶やかな髪を持った長身の人影である。その靴音に気づいて、二本の木に紐状のものをまるで蜘蛛の巣のように張って寝ていた人物が目を開いた。
「やあ、おはよう。久しぶりだね」
のんびりした声には、まだ眠りの名残がある。つかつかと歩み寄った人物は眠りから醒めたばかりの知人の上にのしかかり、襟元を鷲掴みにして引き寄せる。唇がぶつかるまであとほんの少し、という絶妙な位置でぴたりと止まった様は、芸術的調和を示すようにさえ思えた。
「…男と目覚めの接吻というのは、流石に遠慮したいなぁ」
「誰がお前のような妖怪と接吻など」
凄んでみせる声は、低く押し殺してはいても激情の余韻が漂っている。普段冷静沈着で知られたこの黒髪の人物がここに到着するまでに、何か一悶着あったことは容易に察せられたが、寝ぼけたままで回転をはじめていない脳には、十分に推し量ることは出来ない。
「妖怪だなんて、酷いな」
「では、妖怪以下の魑魅魍魎、若しくはそれらの下っ端かそれらの眷属とでもいってやろうか」
真顔で台詞を寸秒の隙間もなくぽんぽんと返してくるあたり、いっそ本気なのかも知れない。
「そんなことよりさっさと吐け。何を企んでいる」
「厭だなぁ、企んでる、なんて。大体、僕が君の為にならないことなんてする筈がないでしょう?」
「私の為になるようなことも一切してはいないがな」
手を放し、ついでにそっぽを向く。その黒い髪は解き放ってしまいたい衝動に駆られるほど艶やかである。長さは、恐らく背中を覆う程度であろう。癖のない真っ直ぐな黒髪は後頭部の中央で一つにまとめられて、藍色の布に包まれている。凛々しい眉は少々釣りあがっているが、それは機嫌の良し悪しに関わるものかどうかは不明であった。血色のいい肌色は滑らかで、さらりとしていながらしっとりとした湿度を触れたものに与えるのかも知れない。褐色を帯びたその瞳は切れ長で、冴えた刃物の波紋を思わせる冷たい輝きを宿していた。ぞくり。と身のうちに冷たい汗が下るのを感じながら、昼寝を中断された人物は、そっと床に足を下ろす。
「心外だな。僕はそんなに信用がないのかい?」
「あるとでも思っているのか」
のんびりした昼日中の空気とは対象的な、冷やかな雰囲気を身に纏う。一言の冗談を混ぜる余地さえも残さないやりとりは、遊戯のような駆け引きも許すことはないのだろう。
「怖いなぁ」
言葉とは裏腹に、怖がっている様子は微塵もない。寧ろ、黒髪の人物の様子を楽しむような風情が漂っている。不快気に眉を寄せて睨み付けると、軽く微笑んで舌を出して見せた。
「情報は、どこまで掴んでいる?」
そのがっしりした背中を覆う藍色の衣の裾には、あまり目立たないけれども細かい文様が見事に刺繍されていた。精緻なその刺繍はかなりの縫い手が刺したものだろう。着用者の身分にも相応しい衣装ではあるが、そこまで精緻なものを仕上げられる職人は、伽国広しといえども、国内に数える程しかいまい。
「相変わらず見事な刺繍だよね。君の衣装を作る人の腕は大したものだ」
寄せられた眉根が更に険しさを増して相手を睨み付ける。
「おおっと。怖いなぁ。別にからかうつもりはないよ。ただ、君の奥方ってもう亡くなられてだいぶ経つよね」
険悪な空気から逃れるように少し距離を置いて、頭をめぐらせる。
「君の一族の一人である虞家のお嬢さんが、婚儀の場から連れ出された岳家の姫君を追って、風維王と合流した。そんなところかな」
「維王だと?」
「そう、あの維王だよ」
ひた。と視線を据えて、にたり。と笑いを滲ませる。何かを企んだ道化の顔というのは、こういう顔なのかも知れない。と黒髪の人物は唐突にそんなことを考えた。
「風家の嫡子が、何故……」
その答えを出すには、あまりにも情報が少なすぎた。