夜話・隠れ笠



 遠くから、細く長く聞こえてくる声があった。耳を欹てて聞くと、それは女のようでもあり、子供のようでもある。悲鳴をあげている訳ではなさそうだが、それにしても深夜にたてる音として適切であるかどうかは、かなり疑わしい。男は夜具にくるまっていた体を起こす。雨が降っている訳ではないが、被り笠を頭に載せて外へ出た。一面の星空が男の体を冷たく照らしている。月は既に西の空に沈みかけていた。沈みゆく月を物憂げに見つめながら、男は足を踏み出した。
 明かりがなくとも歩ける程度に夜目はきく。小さな溝を跳びこえてその声のするあたりに着いた頃には、酒で温まっていた体もすっかり冷えきっていた。秋も深まりつつある。昼はなお暑く真夏のような日差しが照りつけるけれども、朝夕の冷え込みは流石に夏ではないことを証明していた。
 粗末な戸の前に立って叩こうとした時、ふっと声が止んだ。
「……」
 声が止んだのなら、目的はもはやない。そのまま帰ればいいだけである。だが、戸を叩こうとして軽く握られた拳は中空に浮かんだまま、行き場を失くした。立ち尽くしていた男に、戸の中から声が掛かった。あの細い声である。
「何か…御用でございましょうか」
 先程聞こえていたのは、特別意味のないような声であったが。今改めて聞くこの声は、横になって苦しい息の下から零れてくるようであった。
「……却ってご迷惑をお掛けしたようで、申し訳ない。先程まで哀しげな声が聞こえましたので、何かお困りのことでもと夜道を参った次第でござる」
 不思議な程に透明感のある、澄んだ声である。
「それはご親切なことで…。されどもう困りごとはございませぬ。どうかお引取りを」
 その声に低く重い声が被さる。
「いや、是非とも上がって頂こう」
 その押しの強さに、細い声が遠慮がちにとどめようとするものの、抗えずにそっと戸を滑らせた。

 そこに居たのは、人ではなかった。男の形に似たものと、女の形に似たものとが、居た。その頭頂には、何れも角が見えた。
「食ろうてやる」
 舌なめずりしたその背に、追いすがる手が伸びる。
「だんなさま…。おやめくださいまし」
 鋭く伸びた爪がだんなさまと呼ばれた男の鬼のがっしりとした腕に食い込む。引き止めるという生易しい動きではない。寧ろ…。
「生憎だが」
 男は薄い唇を開いた。押し殺したような声が低く地を這うように押し出される。
「うぬらに俺は食えぬ」
 夜は白々と明けはじめていた。暁闇を貫く最初の一閃が、男の背後から鬼どもを射抜く。
「なんだと」
 男は、長い指先で被り笠をそっと落とした。軽い音を立ててそれが地面に届く前に、鬼は男が何であったかを悟った。夕闇の青さをそのまま塗ったような肌、夜よりもなお暗い瞳。そして新緑のように瑞々しい豊かな髪。
「き、さま…」
 それが鬼が放った最後の言葉だった。

「申し訳のう、ございました」
 市女笠を被った鬼は表情を隠そうとしていたが、目尻から零れる透明な涙は隠しきれぬ。堅く閉じられた眼のふちは、少しほんのりと色づいていて、艶かしさが漂っていた。男は痛ましげに見遣ると、女の言葉には答えず、そのままその場を後にした。
 遠く去って米粒程になった男を見た女の口元が、妖しく歪んだ。それは無上の喜びに微笑む女の顔であった。ふふふ。と何やら楽しげに声を立てて笑うと、男が行ったのと反対の方向へ向かって、歩き始めた。被っていた市女笠を投げ捨てて。