夜話・薄野原
薄い黄金色の海が夕焼けの朱に染まっていた。少し冷やかさを増した風が吹いて、素肌には少し辛い。少女は粗末な肩掛け代わりの布を少し引いて、白く眩しい襟元を隠した。太陽が地平線の向こうに姿を消した。
実りの秋という名ばかりの季節。少女の父はこのあたり一帯の地主であった。しかし漸く収穫したばかりの作物は、殆どが手元に残らぬ。その父が所有する田圃は、領主が視察する区画整理された見事なものであったが、そこから上がる収穫を少女が口にすることは、まずない。母屋の隣に慎ましく作られた畑から採れる、僅かな作物で何とか飢えをしのぐばかりである。地主でさえこれほどに困窮しているのだ。先祖伝来の土地を持たぬ者はいかばかりであろう。そう思いはしても、与えるべき食糧を持たぬ手を、差し伸べることは出来ぬ。毎日腹を空かせているのは、何も少女ばかりではない。家中のものが少ない食料を倹約し、分け合って何とか糊口をしのぐのがやっとなのだから、誰もそれを咎めることは出来ぬであろう。しかし飢えている者を見つけて、平然としていられる程少女は強くはない。心の中深く呪文のように「ごめんなさい、ごめんなさい」と祈りながらその前を急ぎ足で通り過ぎるのは、身を切られる程に辛い。ましてや、それらの民は彼女の良く知る村の住人なのだ。
少女の村は、かつて豊かであった。それが突如として貧困に喘ぐようになったのは、数年程前からである。その年、どこからともなく乞食が現れた。白いものの混じった髭は伸び放題、半端でなく垢で汚れた衣類は悪臭を放ち、近寄れば肌に膿が見えた。その乞食には絶えず蝿が付きまとってい、子供達は「蝿乞食」とはやし立てる。しかし彼はただ一軒一軒を訪れて一日の糧を乞うのみであり、乞食にありがちな奇矯の振る舞いを一切したことがなかった。村外れの祠の傍に棲みついていたようである。その眼差しは、乞食には相応しからぬ柔らかで知性の煌きを秘めた光を宿していた。
乞食が現れて数ヶ月程した、ある祭りの夜。彼はある若者によって打擲され、その傷がもとで死んだ。多くは「これで厄介者が居なくなった」と言っていたが、一部の者はそのことについて一斉に口を噤み、以来村では乞食のことは禁忌となった。それは、若者が村の娘を手篭めにしようとしたのを止めようとしたからであった。若者は単なる力自慢であるだけでなく、土地の殿様のご寵愛を受けるご側室の血縁でもあった。泣き叫んで助けを求める娘を守ろうとした者もいたが。権力には抗いかねて、耳を塞いで時が過ぎるのを待つものが大半であった。
守られた娘は、家の者が止めるのも聞かずその世話をして、乞食の心の臓が止まると、その場で細くたおやかな首に刃を突き立てて死んだ。恨みを呑んで死んだ人は祟るという。村人は恐れおののき、徳が高いと噂される僧侶を呼んで二人を供養した。しかしその翌年から、村は貧困に喘ぐようになったのである。実りがない訳ではない。いや、寧ろ豊作と言えるだろう。奇妙なことに、土地の殿様に租税を納めた後、その蓄えが蔵から突然消えてしまうのである。それも、村中一斉に。大きな盗賊団の噂も囁かれはしたが、さしたる娯楽もない鄙びた村にそのような輩が来るとは思えない。また、足跡一つ米粒一つ残さぬ盗みを、そういった輩が良く仕遂げるものではなかろう。偶然か否か、盗まれるのはいつも月夜であった。冴え冴えと輝く月は、灯火以上の明かりである。村を守る自衛団が結成され、村中を夜通し見回りした。しかし、それでも翌朝には綺麗さっぱりと消えてしまう。蔵の中に屈強な若者を入れても同じこと。俵だけはそのまま、中身だけが消えてしまうのである。豊かな家は、止む無く米を他の家から買い、それを母屋に置いた。しかし同じことであった。誰が隣で寝ていようとも、じっと見つめていようとも、結果は変わらぬ。開いた時には既に米粒一つ残らず、消えているのである。田畑の作物は無事だが、蓄えとして蔵或いは母屋に備蓄すると、消えてしまう。蔵を持たぬ貧農も屋根の下に置けば同じように消えた。機転をきかせる者の中には穀物を金に替えておき、日々の糧をそれで養うものもいたが、暫くは何とかなっても、やがて立ち行かなくなるのが常であった。最早、人々は気力を無くしはじめている。毎日畑から新鮮な食物を採ることが出来る時期は良い。冬になって霜が下りるようになると、草木の根を食むような生活が待ち受けている。北国では貯蔵庫として使えるであろう雪は、この村には滅多に降らぬ。そして霜によって野菜は溶かされ、食べられぬものになってしまうのだ。そうやって、数年の月日が流れた。
旅の僧が村を訪れたのは、秋も深まりつつある夜であった。一夜の宿と食を求めて控えめに叩く扉を、歓迎するものは少ない。少女は自分の分を僧侶に提供することによって、父の承諾を得た。
「お坊様、勝手ながら一つお願いがございます」
手のつけられぬ小さな椀は、旅僧の前にあった。少女の食糧を奪うことになると知った僧が、それを置いたのである。僧侶の涼やかな眼差しは少し吊り上がっていたが、面差しと視線のやわらかさがそれを包んで円やかなものに変えている。少女を見つめる目に知性ある光がきらめいた。
「拙僧に出来ることでありましたら」
その微笑を見て、少女は深く安堵した。
「私には、姉がおりました。数年程前の祭りの夜、ある若者に手篭めにされかけたのを、当時この村におりました乞食が身を以ってかばってくれ、事なきを得ました。しかし酔っ払って前後の見境を失っていた若者は、その乞食を激しく打ち据えて…。結局、乞食は三日を経ずしてこの世を去りました。姉はその恩義に感じて三日の間看病を致しましたが、乞食が息を引き取ると自刃して果てました。その時、姉が残した血書がこれでございます…」
血書が滲んで見えるのは、娘の無念の涙のせいだろうか。それともこの少女の流した泪のせいであろうか。読み終えた旅僧は丁寧に畳んで板敷きの床に置き、そっと少女に押し遣った。
「読経を…」
そう言葉少なに告げて、立ち上がる袖をそっと風が揺らした。隙間風に少女が振り返ると、そこには父親が居た。人に見られぬように素早く身を扉の内側に入れる。
「お父様」
驚く少女には視線もくれず、旅僧の前に着座した。
「娘が、詰まらぬ話を致しましたようで…」
しかし、少女を驚かせたのはその後の父の言葉である。
「これが何を申し上げたかは存じませぬが。どうか、何も見ず、何も聴かなかったこととして、この場をお立ち去り願いたい。勿論読経も供養も不要でございまする」
「お父様?!」
それだけを告げると、詮索無用と言い捨てて父親は立ち上がった。後に残された娘は呆然として涙を零し、僧侶はそれを黙って見つめた。
翌朝、旅僧は少女に手紙を残して旅立った。それは、帰途必ずここを寄ること、それから彼女がやらねばならぬ幾つかのことを認めていた。そして、彼がここを再び訪れる時には、少女の憂いは消えているであろうという内容のことが書かれていた。夜明け前に立ち去った僧侶の影を探して少女は村外れまで追いかけたが、その姿は遥か彼方へと消えていた。
少女は僧侶の手紙にあったことを実行した。姉と乞食の供養の為に日夜写経を行うこと。寂れかけた村外れの稲荷社へお百度を踏み、社札を蔵に貼ること。そしてその上で収穫を十五日の昼のうちに蔵へとしまうことと記されていた。何故満月の昼間にそれを仕舞うのか、疑問には思っても口には出さなかった。少女は村を救いたいと懸命であったのである。一人で運べる量は多くはない。また、それをしたところでこの世ならぬ者に持っていかれるくらいなら、やらぬがまし。そう思う者たちは少女を嘲笑った。しかし、旅僧の指示通りに振舞った少女の収穫は、翌朝になっても蔵から消えていなかった。伝えきいた人々が、それを真似するようになり、やがて災いは途絶えたかに見えた。一軒だけを除いて。それは、あの祭りの夜に、少女の姉を手篭めにしようとした若者の家であった。かつてがっしりとした力自慢だった若者は、蟋蟀のようにやせ細って見る影もなくなっている。以前はあった蓄えも、費えて久しい。幼い子に与える僅かな食糧も工面出来なくなっていて、子が日ごとに痩せて干乾びていくのを、歯軋りしながら見つめていた。これもあの女が俺に呪詛をかけたからに違いない。若者は、そう思っていた。その眼差しはぎらついたものになり、やがて剣呑では済まされぬものを孕むようになっていた。
少女は、日々明るさを取り戻していた。無体を働いた若者の家だけが、旅僧の伝えてくれた秘法の恩恵に預かれなかったことも聴いている。姉を死に至らしめた人物ではあるが。最早憎んだとて恨んだとて、姉が戻る筈もない。亡くなった姉と、その姉を守った乞食の成仏を願って稲荷社に詣で、また村の安寧を祈る毎日を過ごしていた。彼女が稲荷社に赴くのを見計らって、家の蔵に近づいた者が居た。蔵の社札を外し別の札を張り替えて素早く消え去った人影は、近くに居た野狐の尻尾を踏みつけて、強かに脹脛を噛まれたが。悲鳴をあげることは何とか堪えて、次の作業を始めた。
翌朝。若者の家の蔵から、凄まじい悲鳴が轟いた。近所の者が駆けつけると、蔵には汚物がぎっしりと詰まっている。茫然自失の態で崩折れた若者の肩にそっと手を当てたのは、少女に秘法を与えた旅僧であった。
「自分の力で得たものではない社札を貼っても、神仏は誤魔化されませぬよ」
微笑みを浮かべた僧侶の切れ長の目は、あくまでも涼しい。
「娘は、心から悔い改め助けを乞い願うことによって、助けて貰えなかった自分の辛さを味わって貰おうとしたのです」
白い面長の顔はきりりと引き締まって、眼差しに宿る暖かな光は無法を尽くした若者をも包み込むようであった。
「恨みに思ったとはいえど、家族や村全部を呪ったり出来る筈もない。ただ自分の苦しさを理解してくれた乞食に報いるため。そして、その苦しさを他の人にも理解して貰いたいと願ったのでしょう」
「お坊様…」
群れ寄る人の波を押し分けて、少女が現れた。
「村をお救い下さいまして、ありがとうございます」
「いえ、村を救ったのは私ではありません。あなたの心からの祈りと願いが、姉上を成仏させ人々を救ったのですよ」
村人は、僧侶の言葉を聞いてその場にひれ伏した。
旅僧はその夜、少女の家に泊まった。
丸々と肥えた月が地平線から上りはじめていた。庭の端を飾る薄の穂が、風に揺れる。父親がとっておきの酒を取り出した。
「私は、娘がずっとこの村と私共を恨んでいるのだと思っておりました。ならば、娘の恨みが晴れるまで、この村中が苦しめばいいと…。恨みが消えるまで、苦しめばいいと…」
既に赤くなった頬は、酒の為ばかりではないかも知れぬ。
「父親とは、そういうものではないでしょうか」
穏やかな微笑みの裏には、何かが秘められているようであった。
「しかし、守ってくれた乞食の恩義に報いようとした、心の優しい娘御ではありませぬか」
そう続けた声には、父親への深い労わりがあった。父は失われた娘の笑顔を思い、酒杯を呷った。
父親が寝付いたのを見澄まして、僧は少女に声を掛けた。
「さて、私も帰らねばならぬようです」
「もうお立ちに?」
哀しげに眉を顰めて見せる仕草は、亡き姉に似てきていた。僧侶は、誰かを思い出したようである。少し切なそうに微笑んでいた。
「もし、あなたが困るようなことがあったら、『真崎の狐兵衛』と唱えなさい。きっとお助けする者が現れるでしょうよ」
言い終えると、旅僧の姿は掻き消えてしまった。少女は夢でも見ていたのかと目を擦って見たが、旅僧は二度とその村に現れることはなかった。翌朝目覚めた父にそれを話すと、驚き怪しんだが。親子二人連れ立って稲荷社に詣でると、神々しいばかりに白い狐がお社の上に現れて、こん。と一声鳴いて消えたそうである。
今はもう遠い昔の、とあるところの物語である。