二人王



 明るい日差しが目に飛び込んで来るような日だった。そっと目を細めて空を見上げれば、中天にさしかかる太陽が見える。夏の暑い盛りに外をうろつく者は居ない。皆オリーブをはじめとする潅木の茂った木陰で過ごしているだろう。野生種のオリーブは枝が多く棘も多い為に、寄りかかるものは少ないが、木陰としてはありがたい存在である。食用オリーブの収穫には、まだ少し間がありそうである。その傍のやや斜面になった岩場には、薄黄色をした花が、ここかしこに咲き乱れている。二等辺三角形みたいな形をした、襞の多い肉厚の葉に守られるようにして、その小さな花が咲く姿は、体育訓練とてもままならぬ程の、肌を灼くような光に立ち向かうものとしては可憐すぎた。
 夏の眩しい光は、沈鬱な冬の空からはとても想像出来ぬ。暗く重く立ちこめた雲から雨が降り注ぐ日々が二月三月も続くのだ。それを知っていればこそ、この日差しが貴重で得難いものだということが判る。彼が監督官(エフォロイ)の一人、キロンから出頭を求められたのは昨日のことであった。余人を交えず相談したいことがあるとの言葉には、正直裏を勘繰らざるを得ない。しかし、王としての振る舞いにおいて、彼は自信を持っていた。事実彼という王を知るものは、高評価をすることはあれど、否定することはないだろう。悠然たる態度、逞しくがっしりした体躯、波打つ濃い茶の髪は豊かに肩に流れ、同じ色の濃い瞳は柔らかな光を宿しつつも不屈の精神を感じさせる。王二人と六十歳以上の選抜市民二十八人から成る長老会(ゲルーシア)の会議が始まる夕刻までに話を終えておきたい、ということは、その内容をもしかしたら長老会で発表するつもりがあるのかも知れない。

 彼は、ラケダイモンの王の一人であった。国の名であるラケダイモンより、古代スパルタという都市名の方が、判りやすいだろう。古代スパルタにはヘラクレスを祖とする二人の王がいた。つまり彼はその王の片割れということになる。上位王家であるアギス家の当主で、彼の父であり先代の王はレオン(獅子)と言った。偉大な王であった父が逝って、既に数年。彼は今少壮と言われる年齢を迎えていた。先代王レオンが亡くなるより少し前に娶った妻は、レオンの孫娘、つまるところ彼には姪にあたる。
 古代或いは神話伝説などでは、兄妹婚は非常に多い。同姓不婚の原則を持つ中国でさえ、神話には姉と弟が結婚する話が登場する。古代日本でも天皇家などは古くは兄妹婚であった。どちらかというと兄妹婚は東洋のものというイメージがあるが、そういう訳ではない。探せばいくらでもあるのだ。ヘラス(ギリシア)の神話では、全知全能の神ゼウスとその妻ヘラは兄妹であるし、もう一人の妹デメテルともゼウスは娘を一人儲けている。だが人間社会においては、ヘラスでは兄妹による結婚は例がない。ただし、叔父などが姪を娶る、或いは逆に甥が叔母を娶るというケースは多々見受けられた。この王とその妻のケースも、年齢から推察するに、レオンの娘であった、恐らくは姉が嫁いで生んだ娘であろう。自らの至らぬところを承知して、王の妻らしくあろうとする妃を、彼は愛おしく思っていた。結婚して数年になるが、まだ子は生まれていない。だが、それは王夫妻にとっては瑕瑾にさえならぬ。いよいよ可憐に、そして同時に女性としての成熟さを増してきつつある姪を、彼はこの上ない存在として大切に守ってきた。
 後世、ヘラス七賢人の一人として名高いキロンは、この年監督官(エフォロス/エフォロイの単数形)を勤めていた。東洋的考え方であれば、賢人というのは隠者的イメージを持つ人物が多いようにも思われるが、ヘラスではそうではなかったらしい。
「お待ちしておりましたぞ、王よ」
 その口調には、何やら粘るようなものがあって、彼は心の中で眉根を寄せた。不快ではあるが、それをあからさまにするには彼は「王」でありすぎた。
「話とは?」
 武人というよりはスパルタ人らしい、簡潔きわまる口調は、無駄な言葉を紡ぎ出すことを嫌う。
「まあ、まずお掛け下さい」
 示された椅子に腰を掛ける。本来なら、王が現れた時点で立ち上がるのが礼儀である。だが、キロンは現在監督官であり、起立の義務がない。それでも一対一で対峙する際は多くの、というか殆どの監督官が起立するのだが、キロンは絶対にそれをしなかった。それは傲慢ともとれたが、瑣末なことにすぎない。
「単刀直入に申します。現在のお妃を離別して、新たなお妃を迎えて頂きたい」
「断る」
 一瞬の間を置くこともなく即答した王は、自らのプライバシーに土足で踏み込まれたような感覚を憶えていたようである。不快の念を、今回は隠すのが極めて難しい。
「不足なく落度なき妻を離縁する必要なし」
 にべもない、というのはこういう態度を言うのだろう。あまりにもそっけなく簡潔な断り方である。
「しかし! 王よ、あなたがご自身のことに無頓着でいらっしゃるのはあなたの自由であろうが、我々としてはエウリュステネスの血が途絶えるのを座視する訳にはいかぬ。現在の奥方が子を生まぬ以上、離別されよ。新たな奥方をお迎え頂きたい。さすればラケダイモンの民人も喜びましょうぞ」
 キロンの押し付けがまさには彼も腹が据えかねた。
「監督官殿の進言は怪しからぬ。そのような要求には応ぜられぬ」
 いつも通りの淡々とした口調。だが頑なすぎる程の拒絶に、キロンは鼻白んだ。既に候補を用意してあったのである。彼にとって遠縁にあたるプリスネタデスの娘であった。王と誼を通じておきたいという思惑が滲んできそうな候補である。多産系と言われる家系の娘であり、子を生む可能性は高いと思えた。それに、その娘を通じて王に誼を通じることが叶わなくとも、その娘が子を生みそれが男でありさえすれば、やがて王になる。そうなれば、キロンが付け入る隙もあろう。そういった将来を見越した布石であったが、その布石そのものを許されなくては意味が無い。何とか王の譲歩を引き出すことは出来ないか。キロンの脳裏にふと考えが閃いた。
「では、監督官と長老たちとで協議を行います」
「良かろう」
 今、ラケダイモンの王は二人いる。だが、その二人ともに嫡出子が居なかった。双方ともにまだようやく少壮といえる程の年齢である。十分子をなすには問題なさそうだが、妃を娶って数年経過しており、世継が中々生まれぬことに、業を煮やしている長老も少なくは無かった。それでも、まだもう一人の王、エウリュポン家のアリストンはましといえた。あまり褒められたこととは言えそうにないが、彼は結婚と離婚を繰り返していたのである。一夫一婦を原則とするラケダイモンでは、アリストン王のありようは異常ではあったが、長老会としては世継を作ろうとしている意思を行動で表明していると捉えるむきもあって、好意的な見かたをするものもなくはなかった。
 それに引きかえてアギス家のアナクサンドリデスは妃と仲睦まじいのは喜ばしいにしても、世継が生まれぬことに苛立ちを憶えてもやむを得ないはずだが、そういうことは一切お構いなしのようである。何れ妃が子を生むと信じているだけかも知れないが、作ろうとして出来るかといえば、単純にそういう問題ではない。或いは、そういったプレッシャーを妃に与えるのを避けていたのかも知れない。現代日本でも長男の嫁には「男の子を」と期待する向きがあるが、科学の力が助けてくれる現在とは違い、そういった技術に頼ることが無かった古代では、様々な迷信だの民間療法が横行していたことだろう。それが実りを結ぶか否かは別にして。

 アナクサンドリデス王が去るのとは入れ違いに、アリストン王がキロンのもとを訪れた。同じ血筋ではあるが、すでに数代を隔てており、容貌に似通った部分がない訳ではないが、似ているとも言いがたい。少し明るい茶色の髪が灰色の目に良く映えてみえるアリストンは、美丈夫の名も高いアナクサンドリデスよりは少し軽薄な感じがしないでもない。それは、日ごろの生活態度がそう思わせるのか、少々物腰に軽さが感じられた。同じ立場の人間というものは、比較対照されることが多い。兄弟姉妹であれば「お兄ちゃんはこうなのに」「妹はああなのに」などと他人が勝手に比較の槍玉に上げることもある。当事者から見れば余計なお世話だというところだが、それを完全に無視出来るのは、余程人間が出来た人物だけだろう。だが、ラケダイモンの二人の王は、個人の思惑はどうあれ、そういった感情からは無縁であるようだった。或いは、王という存在にとっては、それもまた黙殺せねばならぬものなのかも知れぬ。
「二人目の妻もまだ子が出来ぬ」
 アナクサンドリデスとは逆に、口火を切ったのはアリストン王の方であった。王として男として、彼は自分に原因があるとは考えたくはなかった。監督官の目がすっと細くなる。
「三年経ちましたか」
 その言葉に深く肯く。まだ十分に子を生せるだろう彼に、時間がないという訳ではない。だが早急に子は欲しい。アリストン王はもう一人の王より先に跡目が欲しかった。それは、王としてのというより、男としてのささやかな競争心というものかも知れない。
「……」
 新たな妻を、という言葉を口の端に上せるには、躊躇いがある。出来れば「新しい妻を娶られては如何」という言葉を、彼は監督官から得たいと願っていた。漁色家にみられている彼の本当の願いが子を得ることにあるにせよ、監督官としてはそれが些かならず限度を越えていると思っている。それなのに三人目の妻を勧めて、しかもそれが実を結ばなかったなら、咎められることはないにせよ、少々立場がない。いっそ身を慎んで斎戒沐浴して他の女人を遠ざけ、本妻に集中されては如何か、というくらいの事は言っても良かったかも知れないが、アリストン王が現在の妻に深い愛情を抱いている訳でなく、寧ろ鬱陶しいと思っていることを薄々察しているだけに、それも言いかねた。誰も一つ光が見えたら、他の光は目に入りにくくなるものである。それを知っていたキロンは心の中で深く溜息をついた。その日はそのまま別れた二人であったが、キロンの自宅に、ある夜アリストンが訊ねてきた。夜目が利く彼らに松明を持つ習慣はない。灯もつけぬままに部屋にそっと入ってきたアリストンは、少々思い詰めたような顔をしている。
「キロンよ。力を借りたい。いや、知恵を借りたい」
 その言葉に、キロンの目が鋭く光った。

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