二人王
二
「監督官(エフォロイ)と長老とで協議を行った結果、王に一つの案を提示致します」
粘りのある声で告げたのは、キロンである。
「ラケダイモン国民があなたに対して、不測の謀略をめぐらすことを望まれぬなら、我々の提案を受け入れて頂けるものと期待しております。現在の奥方はそのままとどめ置かれて宜しい。身分も待遇もそのままで構わないので、別にいまお一方、子を生むためのお妃をお入れ願いたく存じます」
第一の妃が子を生まぬものとしてなされた提案は、アナクサンドリデスには不快極まりないことである。だが、ここで断れば或いは拘束され、王としての権限も奪われて監禁されることになるかも知れぬ。
「判った。受け入れよう」
こうしてアナクサンドリデス王は二つの世帯を営むことになった。新たに嫁いできた多産系という第二妃は、噂に違わずすぐに身ごもった。ところが、折も折、第一妃がそれと時を同じくして身重になったのである。それまでずっと妊娠の兆候が皆無だった妃の突然の出来事に、大騒ぎをしたのは第二妃の近親のものたちである。「それはデマに違いない」「今更子を生める筈がない」などと口々に責め立て、あまつさえ「妊娠しているフリをして、誰か他の女に生ませた偽の子をすり替えるつもりなのでは」とまで言いだすに及んで、監督官もそのままに放っておくことが出来なくなった。第一妃の出産の時期が迫ると、分娩に立ち会うことになったのは監督官二人であった。これもまたラケダイモンでは前代未聞のことである。第二の妃が男の子を生んだそのすぐ後で、第一妃もまた丸々とした男の子を生み落とした。殆どいっぺんに二人の男の子の父となったアナクサンドリデスは、長男にクレオメネス、次男にドリエウスという名をつけた。ドリエウスとはドーリス人という意味である。或いは、ドーリス人を否定するきらいのある、オレステス政策に力をいれすぎていた、監督官キロンに対する反発の念があったのかも知れない。多産系として売り込まれた第二妃に対して、あるいは第一妃が妊娠した折にその近親が騒ぎ立てたせいもあるかも知れないが、アナクサンドリデスはあまり情愛を感じなかったのかも知れぬ。あるいは、これで役目を果たしたとばかりに王が第二妃を打ち捨てたものか。続いて第一妃が二人の子を次々生み落としたのに対し、第二妃の方はその後二度と子を生むことはなかった。だが、ラケダイモンの王位は第一子が相続の権利を持つ。故に長男として生まれた方が慣習として王位を継ぐことになる。
その日、アリストンは、親友とも畏友とも思う男性のもとを尋ねた。名をアゲトスと言い、数あるスパルタ市民の中でも力をもち人望もある人物で、その妻はスパルタ随一の美貌を謳われた女性である。アリストン自身が深く彼に傾倒していた。酒などを飲んで雑談していると、ふと戯れのようにアリストンが言いだした。
「アゲトスよ。あなたに、私の持ち物全ての中であなたの望みのものを一つ与えよう。同じように私にもあなたの持ち物を一つくれないだろうか」
「ほう。それは面白いことだ」
「あなたが良ければ、誓約を交わそう」
わざわざ誓約を交わすとは、少々度が過ぎてはいないか。と思いはしたが、ものに拘らぬアゲトスは、不審にも思わず請われるままに誓約を交わした。
「ではまず、あなたが選んでくれ」
アゲトスは、以前に見せて貰ったエウリュポン家の財宝の一つを所望した。財宝とは言っても、貴金属の類には関心を持たぬスパルタ人だから、恐らくは先祖伝来の武器とか、そういったものだったかも知れない。しかしそれはアゲトスにとっては価値があるものだったろう。自宅から持ってこさせたそれを、惜しむ風もなくアゲトスに手ずから渡すと、奥の女部屋に居たアゲトスの妻に手を差し伸べた。
「アリストン? 何を探しているのだ?」
アゲトスは、家捜ししてもこの家にはアリストンの家のような財宝はないぞ、と諧謔を飛ばす積もりであった。しかし親友の手が妻のそれを握って今しも出て行こうとしているのに気づいて、思わず絶句した。
「ま、まさか」
「誓約を交わし、あなたは既に受け取った。私は所望する。あなたの妻であるこの人を」
アリストンが妻に恋をしているらしいことを察してはいたが、彼自身に妻がいることを知っていたアゲトスは、それに関して全く危惧を抱いていなかったのである。確かに何でも与えると約束をした。だがそれだけは別だと拒もうとしたが、神に対する誓約を交わした上での行動を、今更取り消すことは出来ぬ。その為にアリストンはわざわざ誓約を交わさせたのだ。卑怯な企みではあるが、彼にはもう手段を選ぶだけの精神的余裕が失われていた。なだめても哀訴してもアリストンは聞き入れず、アゲトスは、やがて身動きがとれぬ羽目に陥ったことを自覚していた。誓約を交わした者は、それを破ることは出来ぬ。それは誓約した神に対する涜神罪(アセベイア)に値する。スパルタ人は恐らくヘラス(ギリシア)の中でも特に敬虔な人々である。そしてスパルタ市民らしいスパルタ人アゲトスは、それを受け入れざるを得なかった。その翌日、アリストンは二人目の妻を離縁し、アゲトスの妻であった女性は、エウリュポン家の王の三人目の妻となった。
それから十月を経ずして……恐らく七月か八月程だったろう。アリストンの三人目の妻が出産した。王はそのとき監督官と会議中であった。
「旦那様! 旦那様!」
家僕が息せききって駆けてくるのを不思議そうに見遣っていたアリストンは、ふと視線を向けてものを言わずに問うた。
「奥様がお子を出産なさいました。男の子でございますぞ! 王の後継ぎがお生まれになったのでございます」
ふとアリストンは指を折って月数を数えた。十月にも満たぬ。
「それは私の子ではあるまい」
きっぱり言ってのけはしたが、家を継ぐ子を得るために子を生めそうな女性に若い男を宛がって子を生ませることも行われていた国ゆえか、それについては誰も深く気にとめてはいなかった。だが、子が成長し己に似てくるようになって、その時の言葉をアリストンは後悔するようになった。
現代でも七月あたりで出産する人が皆無であるわけではないが、かなりの早産で危険であることには変わりない。ましてや、現代と違い科学も医療設備も衛生状態も格段に劣る時代の話である。それで赤子検査にパスした訳だから、前夫アゲトスの子でもおかしくないと思われるが、妻はそう思っては居なかったようである。
アリストンの子デマラトスは長じて父の後を襲い王を継いだが、長じてのち、当時の監督官がアリストン王の「それは私の子ではあるまい」と言う言葉を聴いたと聞かされるに及んで、母親に全知全能の神ゼウス神に誓いをさせたうえで、尋ねた。
「母上。私が父上の子ではないと申す輩がおります。私の父親は真実誰なのでしょうか」
「そなたのたっての願い、ありのままをそなたに伝えよう。アリストンがこの家に私を連れてきて、三日程経った夜のこと。花冠を頭につけた父上がこの閨で私と枕を共にした。それから、それまで自分で見につけていた花冠を私に被せ、部屋を立ち去ったが、暫くして再び父上がこの閨にやってこられた。私が身につけている冠をご覧になって、誰に貰ったのかとお訊ねになる。あなたがくれたものでしょう、とお答えしたが、父上は怪訝な顔をなさっておられる。重ねて私がそれまでのことを話すと、それでは或いはどちらかの神様の仕業かも知れぬ。とお思いになったのです。だから、そなたの父上は、アリストン。或いは、アリストンの姿をしたどちらかの神様でしょう。私はその夜にそなたを身ごもりました。私の出産が十月に満たなかったということで、父上はそなたがご自身の子ではないとお思いになったようだが、女というものは十月に満たなくとも、子を生むことはあるものです。父上もそういった知識がなかったため、その時はそういうお言葉を漏らしたけれど、現にそなたが長ずるに及んで、お言葉をたいそう後悔しておられました。ですから、そなたの出生についてはそのような噂を信じてはなりませぬ」
「母上……」
デマラトスは母の手をしっかりと握り締めた。
事実、この噂はエウリュポン家の血を引くものが、デマラトスの王位を奪おうとして画策したことであった。彼が王位を狙われるようになったのには、一つ彼がしでかした事件が関わっているのだが。その事件の概要を見ると、なるほど確かにデマラトスはアリストンの実子であると断言しても良さそうであった。
アギス家当主アナクサンドリデスの第二妃が生んだ第一子クレオメネスは、頭脳が正常でなく、また狂気の気があったという。それに対して第一妃が生んだ第二子ドリエウスは同じ年頃の者の中でも抜きん出て優れており、才幹もあったので、王位を継ぐのは自分であると堅く信じるようになった。しかしスパルタの慣習では、第一子に位が継がれることになっていて、ドリエウスの出る幕はない。地上に二人の王が存在するラケダイモンでも、一つの家には一人しか当主そして王は存在出来ぬ。狂気の気があったというクレオメネスの下につく気にもなれなかったドリエウスだが、もしかしたら人望も大したことはなかったかも知れない。
彼は、成人して一子を生したのち、新たなるスパルタの植民地を作ることを目指して船出をすることを決めて、スパルタから若く彼に付き従う体力のあるものを選抜し、糧食を調えて準備を始めた。その行動については些か軽率なものがあったようである。本来こういった大きな事業に着手する場合には欠かせないのがデルフォイの神託であるが、これを受けずに出航し、結果すぐ帰ることになった。ついでに二度目も古い神託を引っ張り出してあーだこーだと解釈を付けてその通りに行動した。だがもし、彼が船出をすることがなければ、そのまま順繰りにラケダイモン王になれたのだから、彼はもう少し待つことさえ出来れば良かったのである。ドリエウスは二度目の航海の途中、遠く離れた異国の地で命を落とし、結局ラケダイモンの王にも異国の王にもなることは出来なかった。
その彼の代わりに、クレオメネス王のあとを継ぐのは第一妃が生んだ第三子レオニダスである。その妻となったゴルゴは第一子クレオメネスの一粒種であった。父であるアナクサンドリデスと同様、レオニダスも姪を妻としたのである。
アーモンドの花が豊かに咲き乱れる夜、レオニダスと妻ゴルゴは夫婦水いらずのひとときを迎えていた。アーモンドの花は、日本で言うと桜に該当する、ヘラスの春を代表する花である。白く或いはほんのりと薄い紅に染まる花びらは、うら若い乙女の上気した頬を連想させた。光に透けるような明るく軽やかな髪をした妻に、レオニダスはそっと微笑む。あどけなさを残した微笑を返す妻は、わざわざその意味を問い返したりはしない。ただ、快い沈黙がそっと二人を包んで、豊かな気持ちが胸に満ちる。夫はそっとアーモンドの花の付いた小枝を取り出して、妻の髪に挿した。手馴れぬその仕草に、心に秘められた思いが籠もる。
「ありがとう」
先にいうべき言葉を言われてしまった妻は、少々戸惑い気味に小首を傾げる。
「旦那様?」
ゴルゴは先年、男の子を生んだ。父王のように第二妃を迎えることがなくて済んだことに、レオニダスは心から安堵を憶えていた。邪魔も干渉もない穏やかな生活が続けられるのは、妻が男の子を生んだおかげである。微笑みを深くして、妻に手を差し伸べ、寝台へと誘う。幾度となく繰り返されたことではあるが、ゴルゴはいつも、体の芯に火が灯ったような感覚を感じていた。
「旦那様……」
「おいで」
言葉の代わりに、夫の腕の中へと身を投げる。初めての夜のようにそっと目を伏せてしまう妻の、震える瞼にそっと口付けを落として、夫は優しく抱き寄せた。その逞しく鍛え抜かれた胸には、傷のないところは一つもない。だが、ただ一人妻だけが触れることを許される背中は、なめした皮のように滑らかである。か細い指が、その背にまつわりついて、やがて無我夢中のままに傷跡を一つ、つけた。
数多の歴戦の勇士でさえも付けられぬ傷を。