第二章英雄の末裔
二、ペルセウスの末裔
四
娘とさして変わらぬ齢のアトッサから、オタネスは今まで感じたことのない恐怖を受けていた。キュロス二世在世の折に、まだ少女だった彼女を間近で見たことは何度もある。カンビュセス二世の妃になってからも、公式の場で何度かその姿を見ていた。単に年頃の娘らしい、華やいだ雰囲気を身にまとっているだけに思えていたが、今目の前にいるアトッサは、王妃というよりも、寧ろ女王或いは魔女という言葉の方が、修飾として適当である。切れ長の目は深い闇を秘めて妖しく輝き、滑らかな肌は青白いという形容こそが相応しい。暗い色をした髪がそれに影を添えていた。
「アトッサ様……」
重苦しい沈黙に耐えかねたパイデュメが、脇からそっと吐息交じりに声を漏らす。少し掠れた、そのか細い声が、父親の自覚を取り戻させた。
「では、玉座を暖めておいでの方は、一体…」
「偽者じゃ。キュロスの娘、カンビュセスとバルディヤの姉妹たる私が保証しよう。あれはキュロスの子ではない」
ここで、はいそうですか、とオタネスが答えたとしても、彼に取るべき手段はそう多くは残されてはいない。アトッサという女を、彼は良く知らぬ。アトッサの言葉尻に乗っかって、玉座に座る者を偽者として抹殺したとして、その返す刀で彼を、王を弑した者として始末されるのがオチであろう。そうなればアトッサは自らの手を汚さずして、邪魔者を二人消すことが出来る。……もし、王を消したいというのが彼女の願いであれば。
「……アトッサ様。私に、何をお望みでしょうか」
策謀を巡らすのは好きではない。それは武人というよりは女子供のやることである。そう信じるオタネスは、やはりどこまでも武人であった。にやり、とアトッサの片頬が少し盛り上がった。
「話が早い。流石はオタネス殿。キュロスの血を守るために、そなたにやって欲しいことがあるのじゃ」
そのとき、ふとアトッサの衣服が透けそうに薄い布であったことに、オタネスは唐突に気づいた。
「妾のために働いてくれるな?」
反駁を許される余地は、どこにもなさそうだった。
ペルシア帝国女性として、頂点の席を占める若き王女は、まずオタネスに仲間を募ることを命じた。毛色が良く…つまりは貴族としてある程度の勢力が期待出来るもの。そして少壮くらいの年頃であること。口が堅いこと。信頼出来るものを二人程仲間に引き入れ、二人の仲間にまた信頼出来るものを引き入れさせる。そうすれば、裏切られる確率は少し低くなる。
「そういえば」
切れ長の瞳がそっとオタネスを見据える。
「ヒュスタスペスの長子がいたな。確か…。父上に処刑される筈だった男が」
「ダレイオスでございますか」
「おお、そんな名前だったか」
一呼吸置いて、そっと肯く。薄い布で作られた服は当世流行のものである。というよりは、アトッサが好んで着用しているからこそ流行していると言える。体の線をはっきり示しているだけでなく、その肌の色合いも十分に隠し遂せているとは言えない。
「そのダレイオス、仲間に加えることは出来まいか?」
「……アケメネス家の出身ではありますが、さして高い身分の者とは言えませぬ。ご信頼に値するかどうか…」
言い淀んだオタネスに、獅子もかくやという鋭い一瞥を与える。
「仲間に引き入れよ」
年若い女に威圧されたことは彼の自尊心を傷つけはしたが、その相手がキュロスの娘であったことは彼にとっては幸いであろう。つまりは「キュロスの血を引くものに、遠慮をしたのだ」と自分に対する言い訳が出来る。
「はっ!」
武人らしく短く応えたオタネスであったが。彼の方から動きを起こすまでもなく、それから数日後。ダレイオスの方から、「内密に話がある」と持ちかけてきた。既にそれは転がり始めていて、最早動きを止めることは出来ぬよう、仕組まれていた。恐らくは、人ならぬものによって。
同志と呼べる人は、オタネス自身を含めて六人集まっていた。いずれも顕門の出身であり、名だたる要人でもあって、オタネスと同世代か、もう少し若い年齢の者が多かった。そこに加わったダレイオスは、三十歳くらいになっていた。「盛年」を四十といい、それを主軸に考えるとするなら、それに十年程時間の余裕があるダレイオスは、少壮というところである。ヘラス(ギリシア)では漸く一人前と見られる年であり、家庭を持つようになる年齢でもある。勢いづいていたダレイオスは、直ちにクーデターを起こすべきだと主張した。
「知っているのは自分だけかと思っていたのだが。事ここに至っては、一刻も早く決行し遷延せぬことを申し上げたい。事を遅らせるのは賢明なやり方とは言えぬ」
なだめるようにオタネスは慎重に言葉を選んだ。
「ヒュスタスペスの長子よ、そなたの父上も立派なお方であったが、そなたもまた父上に負けず劣らず立派な人物であるようだ。だが、無闇矢鱈に決行を急いで事を仕損じてはならぬ。相手は王の椅子を奪っているのだ。慎重の上に慎重を期してもまだ足りぬ。この計画を実行するためにももっと同志の数を増やすべきである」
武人ではあるが穏健派でもあるオタネスの言葉の意味は、勿論ダレイオスにも判らない訳ではない。
「なら、覚悟して頂こう。今すぐ決行しないのであれば、そなたらは皆世にも無残な最期を遂げることになるであろうよ」
「何だと?!」
ダレイオスに次ぐ年若のインタフェルネスがいきり立ったのは当然と言える。ダレイオスは今直ちに事を起こさねば密告するとでも言っているように思えた。その視線に冷たい一瞥を投げつけて、冷ややかに笑うダレイオスは、年齢には不似合いな程老成して見える。
「仲間を二人、三人と増やしていけば、いつか必ず密告する者が出てくる。そうなればあちらにも戦いの準備の時間を与えてしまう。そうなるまえに、まだ此方が偽王と気づいていないと思われている今こそが最大の好機だ」
若者らしいその言葉には、居並ぶ要人達を納得させるだけの重みがあった。
「もし今日いまここで立たないというのなら、私が密告者になる。私が密告されてはかなわぬからな」
困惑しつつもその意図するところは明白である。偽王を倒すという意志そのものは明快であった。
「ならばダレイオス、ヒュスタスペスの子よ。どうする?」
訊ねかけるオタネスに向ってにやり。と笑いかけると、ダレイオスは皆にもっと傍へ来るようにと指示をした。新参のダレイオスが牛耳っていることについて反論したい者はいたが、しかしそれについて意見を戦わせている暇はなさそうだった。
カンビュセス二世の近侍であったプレクサスペスは、マゴス僧に招かれていた。必要以上に丁重な物腰は、誰かから何か言い含められたのかも知れない。
「単刀直入に申し上げます。プレクサスペス殿。王が偽王であるという風評が宮廷内に…。ペルシア人の信望高く、カンビュセス前王の近侍であったあなたに、その噂を払拭して頂きたい」
ふん、と軽く鼻を鳴らす。王自らが出向くよりも周りからかためた方が良いと判断したのだろう。そしてプレクサスペスはカンビュセス前王の側近中の側近である。信憑性の高さは折紙つきである。
「そのようなことをわざわざ行わなくとも、王が真実ペルシアの王であることは皆が承知の筈」
一旦はそう言って謝絶したものの、マゴスに押し切られるようにして、プレクサスペスは演説を行うために城楼に上っていた。あの日、願った通りに。
城楼から見下ろすと、地上の人々は米粒にも等しい。それだけの高さがあった。緊急召集と聴いて集まったスーサの人々は、城楼に在るプレクサスペスの姿を見て、その言葉に聞きいる。普段から温厚な人柄で知られる人物は、それだけの敬意を表されるに値した。
「偉大なるペルシア帝国の民よ。偉大なる王キュロスの子らよ。我らの王の家系は偉大なる父アケメネスに始まる一族の者が代々その位を守ってきた…」
アケメネスからキュロスにまで続く系譜を厳かに述べたあと、キュロスの事績について物語る。
「偉大なる王キュロスは、我らの父であり王であった…」
そう語るあたりでは、在りし日のキュロス二世の姿を思い浮かべて涙する者まで居た。
「大王よ! キュロス陛下よ!!」
「我らが父よ…!」
涙に声を詰まらせている人々を確認して、彼は満足気に肯いた。
「今玉座を暖めているのは、キュロスの子ではない。生前王位を簒奪される夢をご覧になった、カンビュセス前王陛下の命により、バルディヤ様は亡き者となった。バルディヤ様の死の証人、それはバルディヤ様を手にかけた私自身である」
聴衆が驚愕のあまり怒号をあげた。
「ならば今、キュロスの血を引くものが座るべき玉座を、あたためている者は誰か!?」
問いかけの形をした、それは確認であった。
「事実を口にするのは、この身に危険が及ぶ。それで今までは真実を口に乗せるのは躊躇ってきた。しかし今こそ私は真実を告げる。今、玉座に座るバルディヤは、キュロスの子バルディヤではない! それを私は我が身を持って真実であると訴えよう」
そう叫ぶなり、プレクサスペスは身を躍らせた。虚空に向って。しかし有翼獣でもなければ鳥でもない彼が空を自由に飛びまわる事は出来ぬ。
「うおおおおー!!」
「きゃああああ!」
幾人かの女性が布を引き裂くような声を上げる。しかし声をあげても落下のスピードを緩めることは何人にもかなわぬ。下で待ち構えようにも、高さがありすぎて巻き添えになるだけ無駄死にになりそうだった。壮絶な悲鳴をあげて、彼は石畳に叩き付けられ、即死した。辺りには脳漿と大量の血が飛び散り、騒然とした空気が漂っていた。