第二章英雄の末裔
二、ペルセウスの末裔
三
ペルシアでも上流貴族に属するオタネスは、ペルシア王カンビュセス二世に娘パイデュメを嫁がせていた。専制君主の後宮であれば男子禁制は当然のことであるが、この頃はまだ然程厳しくはない。父兄であればある程度の訪問は不可能ではなかったし、何かの用事が出来れば、便りが来ることもあった。勿論王の気を惹く為に欲しいものをねだることもないでもないが、久しぶりに娘から使いが来たことを、喜ばぬ親はない。しかし書簡の内容を読んでオタネスとその妻は、首を捻った。素直な娘らしいいつもの物言いとは違う、奥歯にものが挟まったような便りは、妙に勘に触る。一通り読み終えて、オタネスは妻にそれとなく水を向けた。
「元気でやっているようだが。何か、あれらしくないような…」
「はい、何とも奇妙な…」
夫婦は視線を交し合う。そこには、長い時間を共に生きた者同士がもつ、深く静かな共感があった。どうなさいますの。と妻の瞳が語りかけてくる。耳を打つ音はなくても、それは十分以上に彼に伝わってきた。そして、愛娘パイデュメの瞳は、妻のそれに良く似ていた。久しく会って居ない娘が語りかけてきているようだった。
「あからさまに言えぬ何かが、あるのかも知れぬ。書簡が第三者に見られることを恐れてのことか、それとも……」
「はい……」
夫婦は目交ぜをして、互いに肯きあった。
「明日、行って来る」
「かしこまりました。ご準備を調えておきます」
妻は深く頭を垂れて、夫への信頼を示した。娘のことをお願いします。と夫には音声になっていない妻の言葉が伝わってきた。
埃が風に混じっているせいか、どこかほのぼのとしたやわらかい色合いをした空気が、明るい青い空に散っている。それを背景に白く屹立するそれは、有翼獣を象った巨大な彫像であった。彼が両手を広げてそれを囲もうとしても、抱えきれまい。実行するとすれば、恐らく十数人程度は必要となるだろう。その高さは馬に乗っていてさえ、天にも届くようだ。しかもそれは単なる彫像ではない。それは圧倒される程の、巨大な門柱であった。それに連なる壁は、同じ石を彫って作られており、征服された周辺民族を象ったレリーフで飾られている。どこまでも延々と続くかのような、石壁のレリーフの諸民族は、そのままペルシア王たるものの巨大な権力を象徴していた。貢物を持ってくる人々がいるという事実だけではない。
壮年を迎えたばかりらしい、屈強な門番が二人、有翼獣の前に並んでいる。軽く口を開いた彫像の前に立つ彼らは、まるで獣のための生贄であるかのような錯覚を馬上の人に与えた。二人の門番は彼を確認し互いに視線を交わす。それは、彼が誰何されぬ程度の身分の持主であることを意味していた。本来立ち止まる必要さえ、なかった彼が、敢えて馬の歩みを止めたのには、他のことが脳裏を過ぎったせいもある。しかし憶測だけではことは進まない。オタネスは明るい茶色の髪を軽く振って、再び馬をすすめた。ペルシア王の居城、ペルシア王宮へ向って。
前王カンビュセス二世が亡くなったと早馬による連絡があったのは、数日前のことである。既に即位している弟王バルディヤは兄の喪に服しているものか、いまだ宮廷へ顔を見せては居なかった。カンビュセス二世の遺体が到着するのは、まだ少し先になるかも知れないが、葬儀の準備をしておく必要はあるだろう。そう思うのだが、バルディヤ王はそれについて一言も近侍の者に伝えてはいないらしかった。
「王はどちらに? 謁見を願いたい」
身分が上の者にへつらうことしか出来ぬ輩を巧く使いこなすためのコツの一つは、恫喝である。実際オタネスは王以外の貴族の誰をも憚ることがない身分であった。そういう権力者に睨まれて無事でいられるものは少なくない。王が替わったばかりでその寵愛を嵩にする宦官も、またマゴスも居なかったことも、オタネスに幸いしたといえた。宦官とマゴス(僧)数人がその場にいたが、顔を見合わせて首を横に振るばかりである。
「どうしたのだ? オタネスが王にお目通りを願っているのだ! 取り次げ!」
この日、もしバルディヤが王宮に居たなら、彼の運命はその後もう少しばかり違うものになっていたかも知れぬ。
「王は…その。狩りに…」
鋭い眼差しが宦官たちを睨みつける。
「狩り、だと?」
視線で殺すことが出来る者が居たなら、恐らくオタネスはその一人だったに違いない。前王の喪中に狩りだと? その視線はそう詰問していた。その凄まじさに震え上がらずに居られたものは、そこには皆無であった。猛禽類のような鋭い目つきを直視出来る者がいたなら、或いはオタネスの恫喝をそれと見破ることが出来たかも知れない。
「ならば。我が娘パイデュメに久しぶりに会って帰る」
「それは王の許可がなくては!」
再び白く冷たい視線が宦官を見据える。そのような王を王として認められるか、と言外に言っている目は、針の筵よりも余程居心地が悪かった。あたふたとしている者どもに追いうちをかける。無言で指の関節をポキポキ。と鳴らしたのは、単なるデモンストレーションであるが、腕に覚えがない弱者には有効極まりない手段である。ついでに、足を数歩踏み出して見せたのは、愚者どもに対する単なる嫌がらせであるが、オタネスの予想以上の効果を生んだ。
「父親が娘の顔を見るのに、許可がいるか!」
そうオタネスが吐き捨てると、恐れをなした宦官やマゴスは、口々に悲鳴をあげながらその場から逃げだした。帽子を取り落とすもの、履物が脱げたのに気づかぬまま走り去った者までいる。それに視線を投げつけながら、オタネスはふう。と一息ついて、大股で歩き出した。心の中で、ほんの少しの安堵と、ほんの少しの遺憾の念を憶えながら。
緩やかに流れる噴水の水音しか聞こえなかった室内に、かつん、かつん。という静かな足音が響いてきた。先導の侍女は、我が家から王宮へと送り出す時に、つけてやった家来の娘である。利発な性質で、娘にとっては既に腹心といえる存在であった。パイデュメの伏せた茶瞳が父の姿を認めたとき、みるみるうちに透明なものが満ちていくのが、少し離れた位置に立っていてさえ、見てとれた。
「パイデュメよ…」
「……お父様……」
言葉少なに父の腕にすがりつき、泣き崩れる娘は、妃に出した時よりももっと可憐で弱々しく見えた。
「……すまぬが、我らだけにしてくれぬか」
傍にいた侍女らに、声を荒げることなく優しく伝える。本当は腹心の娘だけは残しておいても大丈夫かも知れないが、他者が来ぬよう見張りを立てておきたかった。その意を汲んだか、侍女が口を開いた。
「あちらの柱に控えております。他の者も」
怜悧な目がやや控えめに、しかし鋭さを残したまま、声だけを落とす。
「誰かが参りましたら、咳払いをするよう伝えてあります」
行き届いた配慮は、或いはパイデュメが予め言い含めておいたものかも知れないが、その行動はオタネスの望みうる限り最上のものであった。パイデュメより少し小柄で、そして少し年下であった娘だが、或いは妃であるパイデュメより余程賢いかも知れぬ。侍女は、それだけを伝えると予告してあった通り、少し離れた位置に目立たぬように控えた。
「お父様…。アトッサ様からのご命令で、お父様を……」
「アトッサ様の?」
それは、先々王にして「ペルシアの父」と呼ばれた、偉大なる大王キュロス二世の娘にして、兄弟であるカンビュセス二世王の妃たちの、筆頭の座を占めた女の名前であった。事実上の王妃或いは正妻とでもいうべきかも知れない。他の妃が側室とされている訳ではなかったが、アトッサはやはり出自の問題はあるとしても、他の妃とは抜きん出た位置に立っている女であるといえた。
娘であり王の妃の一人であるパイデュメと、その侍女とに先導されて、オタネスはアトッサの室へと赴いた。重く巨大な扉を傍らに居た従者がゆっくりと開けると、広く暗い部屋の奥に、ぼうっとした光が見えた。いや、光ではない。白い肌を際立たせるような黒っぽい髪をした女が一人、椅子に座っている。深い闇の色をした、アルゴル(ペルセウス座にある変光星。悪魔の頭、悪魔の星、悪魔の光など諸説ある。アラビア語に由来するとされる)そのもののような妖しさを秘めた黒っぽい瞳が、ペルシア帝国でも指折りの貴族を静かに睥睨していた。
「すまぬな」
見下ろすような言い方は、オタネスには少々不愉快であったが、王の娘であり、王の姉妹であり、そして王の妃である女に、無礼は許されない。たとえオタネス程の貴族といえども。
「キュロスのお子の御為とあらば…」
言葉少なにそう答えたのは、「何もあなたの為ではない」という微かな意思表示かも知れない。それに気づいたか、アトッサは軽く左の眉を歪めた。
「その『子』のことだが。今、キュロスの子でないものが、大いなるペルシアの玉座にのうのうと座っている」
確信に満ちた様子で、そっと女は爆弾を落とした。雷鳴が轟いたような気がしたのは、オタネスの錯覚だろうか。アトッサは、にやり。と唇を歪めた。稲妻の光を浴びて、その白い肌は一層青白く見え、アルゴルよりも危険な瞳が稲光の後に訪れる闇に、そっと冷たく輝く。ペルシアでも指折りの貴族、そして豪胆さで知られてきたペルシア随一の武門の出である勇者オタネスは、その言葉にごくり。と唾を飲み込んだ。