桜宵――はなよい――



 桜さんと初めて出会ったのは、デパートの紅茶売場だった。桜の季節より少し前だったと記憶しているから、冬の終わり頃だったろう。一目惚れなんて初めてだった。ドラマか物語の中だけの出来事だろうとずっと思っていた。初めて僕の家に彼女を招いた夜は、桜が咲いていた。家まで送ると言って一緒に歩いた、桜並木。その時の桜さんの姿を、今でも僕ははっきりと思い出せる。そして、二度と忘れることはないだろう。僕が生きてこの世にある限り。

 姪の名前は桜という。妹の檀(まゆみ)が夫である槐(かい)君と相談して決めたのだ。名前の由来は、僕の亡くなった妻である人である。その名をつけたいと檀が言ったのは、姪が生まれた翌日だった。お腹の子が女の子と判った時から、考えていたらしい。僕が嫌がるとは思わなかった?と半ばからかうように訊いたら、義姉さんは絶対許すと思うわよって言えば大丈夫だと思ったもの。とぺろりと舌を出して笑った。もしかしたら彼女は、この子の名前を僕の為に選んでくれたのかも知れない。その桜も今年で八歳。大きくなった。明るくて、少しおしゃまで、人を温かい気持ちにさせる。一緒に居て、時々切なくなる気持ちを憶えるのは、多分僕のせいだ。桜さんがもう居ないことを思い知らされる気がするから。風に散る花びらに映る、優しい微笑み。桜の季節は嬉しいのに、切なくて狂おしい。僕の手をすり抜けて消えていく花びらが、桜さんにあまりにも似すぎている気がして、涙が零れそうになる。時が癒してくれる、と悪友は言った。嘘だろうと僕は切り返した。毒舌家の彼が珍しく言葉に詰まっていたことを思い出す。彼の心遣いに申し訳ない気持ちを憶えても、こんなにも深く鮮やかに僕の心に焼き付いている記憶を、僕はどうすることも出来ない。少しずつ遠ざかる春。桜さんはもう歳を取らない。僕だけが一人取り残されて、老いていく。そして一人時を重ねていく。手を携えて、心を重ねてあの日語り合ったあなたが居ないのに。ずっと一緒にと誓ったのに。あなたは何もかも持っていってしまった。夢も未来も、生きていく勇気さえも。返してくれ、とは僕は言わない。せめて連れて行って欲しかった。どこまでも一緒に行きたかった。桜がもう終るというある夜、僕は久しぶりに桜並木を歩いた。桜さんと、初めて一緒に歩いたあの桜並木を。桜さんを失って初めて泣いた、あの桜並木を。

 僕が時折この桜並木を歩いているのを知る槐君は、傷を温め直しているんですねと呟いた。檀だったら、何傷口に塩塗りこんでるのよ、お兄ちゃん!とでも言ったかも知れない。僕は槐君の言葉にそっと肯いた。槐君は、気をつけて。と送り出してくれた。冷たくはない風が少し出ていて、花びらが舞っていた。深い闇に沈んだ桜は、あの夜の桜に似ていた。僕は夜の腕に抱かれて、桜さんのことを思っていた。桜が道の両側にあって、トンネルになっているところで、僕は立ち止まって桜の木にそっと手を当てた。桜さん、という声は僕にしか聴こえない筈だった。微かな、はい。という声が聴こえて、僕は自分の耳を疑った。その木の向こうに居たのは、生きている女性だった。僕が望んでいる桜さんとはまったく違う人だった。
「あの…、さくらって私のことじゃないですよね?」
「すみません。他に人がいるなんて思わなくて」
 僕は慌てて頭を下げた。そう、こんないい頃合の季節、散りかけとはいえまだ咲いている桜を愛でる人が他に居ないなんて、甘いだろう。
「失礼でなければ…、その桜さんてどなたですの? とても心の籠もった、お優しい呼びかけでしたわね」
 黒目がちの大きな瞳が僕を真っ直ぐ見つめていた。
「……妻です。もう亡くなって何年にもなるんですが…」
 屈託なく微笑んだ女性を見た時、僕は不思議な思いに包まれた。
「ここは思い出の桜並木なのかしら」
「……はい」
「ごめんなさい、そんなところをお邪魔してしまって。ところで、不躾ついでに教えて頂きたいのですけど、姪っ子さんなんていらっしゃいます? 桜ちゃんてお名前の」
 その女性は、姪の桜の学校の教師だった。
「それは…桜がいつもお世話になっております。でも何故僕が伯父だと…」
「桜ちゃんご自慢の伯父さまの話を知らない担当教諭なんておりませんわ」
 一体桜は学校でどういう話を周りにしているのか、と軽い不安に包まれた僕の懸念を打ち消すような笑顔だった。ご心配なく。大好きなおじちゃん、っていつも伺っておりましたの。明るくて、本当にいい子ですわね。楽しそうにそう語った。
「そうそう。私の名前っていう作文がありましてね。桜ちゃん、校内作文コンクールで賞を取りましたの。おじちゃんの、お嫁さんの名前を貰ったってありましたから。それで印象に残っていたんですわ」

 二日後、桜が僕の家にやってきた。
「おじちゃん、先生と会ったでしょう?」
 ちょっと照れ臭そうな、それでいて嬉しそうな笑顔だった。
「うん、吃驚したよ」
「桜のね、大好きな先生なの。おじちゃんも大好きになってくれると嬉しいな!」
 こぼれ落ちそうな程の微笑みとひたむきな温かさを僕に注いでくれる、小さな少女。僕は桜の頭を軽く撫で、それから二人で紅茶をゆっくりと飲んだ。桜はもう殆ど散っていて、黄緑色の若葉が目を覗かせていた。

 桜の季節は徐々に北へとゆっくり動いていく。僕はその桜を追って北へと向かうのだ。それぞれの町でそれぞれに桜は咲く。僕がそれまでに見たことのない桜に出会うこともあるし、それぞれの桜は咲き方もまた異なる。札幌へ降り立ったのは、五月の連休だった。札幌は一瞬で春になる。本州のように梅から木蘭、桜などとゆっくり咲き揃っていく訳ではない。一気に上がった気温とともに、一度に花を咲かせるのだ。雪が溶け残ってぐちゃぐちゃだった地面も、桜が花を開く頃には消えている。春になる直前の頃を土地の人は一番嫌うようだ。花の讃歌が一斉に歌われるようなこの時期こそ、北国の人が最も愛する春なのかも知れない。僕の今年の「恋」はもう間もなく終ろうとしていた。
「あの……」
 旅先で不意に掛けられた声を、道を尋ねようとする人だとする判断はあまり間違っていないように思う。このあたりは詳しくないので。とお断りしようと振り向いた時、僕はまさに凍りついた。あの夜出会った女性だったからである。
「本当に『桜』がお好きなんですねぇ。まるで桜の追っかけをなさってるみたいですわ」
 屈託のない微笑みを向けられて、僕は戸惑った。何故先生がここに居るかが理解できなかったからである。
「帰省中ですの。私、実家が札幌で、大学に入るまではずっとこちらでした」
 僕の戸惑いを察知したような、見事な程に理路整然とした説明だった。

 檀が僕の所に現れたのは、それから数日後のことだった。
「お兄ちゃん、桜の学校の先生とお付き合いしてるって本当?」
 寝耳に水でというか、どこからそんな話が出たのかと正直吃驚した。僕は事情をかいつまんで説明した。
「そうなの。あの先生もお気の毒な方だしね」
「お気の毒?」
 僕が鸚鵡返しに聞き返した言葉に、檀は明らかに失敗したという顔をした。そのまま済ませても構わなかったけれど、何となく詳しい事を聞いたのは、屈託のない笑顔の裏に、何か潜んでいるものがあるような気がしたからかも知れない。檀は、おずおずと事情を話した。数年前、先生が結婚間近だった恋人を事故で亡くしていた事を。僕と同じ痛み、と檀は言った。愛する人を失う痛み。と。

 桜さんが煙になって空へ昇っていったのは、春だった。僕はどこまでも追いかけて行きたかった。追いかけられなかった代わりに、毎年桜を追いかけているのだ。まだ桜が僅かに残る山があると聞けば、足を伸ばした。桜さんに会える、と思って。一目でもいいから会いたいと思って。

 山には、何かがたちこめてどんどん広がって行くように見えた。白っぽいそれは煙かと思えた。僕は地元の人らしい男性を呼びとめ、消防車をと頼んだが、彼は暢気に杉の花粉だ。と答えた。この間も山火事かと思って通報したんだ、と。僕は目を瞬かせた。その煙のような帯は、山の上のほうへと流れていく。静かなそれは、ゆっくりと舞い上がっていった。目を凝らして見ると、確かに、微かながらも黄色味を帯びているように思われた。いつかそれは地に落ち、芽を出し、新しい木となって成長するのかも知れない。桜さんの煙が落ちて、地に還って。植物の一部となったり或いはそれを食べた誰かの体の一部となって成長していくのは、はるかな未来だろうけど。人が何れ地に還っていくのなら、僕のこの腕を構成しているものも、かつて誰かの足だったかも知れない。
 回帰。
 そう、全てのものが回帰していくのなら。
 桜さんのかけらが、僕のかけらと一緒になって、新しい生物になることだってあるのかも知れない。
 少し離れた山の斜面に、山桜が見えてきていた。

「あら?」
 明るい声は、間違えようがなかった。三度目である。しかも今度は学校からそう遠くはないスーパーだから、当然といえば当然といえた。社交辞令の挨拶をしてしまうと、もう話題がなかったので、それでは。と踵を返して立ち去ろうとした。
「宜しければ…お茶でもご一緒して頂けませんかしら?」
 女性にそういうお誘いを頂いたのは、桜さん以外では初めてかもしれない。鄭重にお断りしたいところではあったが、先日檀から聞いた話も少し気になっていたので、ご相伴させて頂くことにした。
 店に入って、珈琲を頼むと、先生は黒目がちの目を少し丸く見開いた。
「紅茶がお好き、と桜ちゃんには伺っていたんですけれど」
「妻が…外では紅茶を一切飲まなかったんです」
「紅茶好きでいらっしゃるのに?」
「紅茶が好きだったからです。外で飲むものには満足が行かないと言って。拘り屋でしたから」
「素敵な奥様でしたのね」
 そう言って、またあの屈託のない笑顔を見せてくれた。その笑顔が、僕の中の何かをそっと押してくれたようだった。
「最高の妻です」
 その時、僕の胸に仄かな光が差し込んだような気がした。

 どうして、それを忘れていたのだろう。嘆くばかりで、僕は何もしていなかった。哀しかったのは当然だ。苦しいのも切ないのも、当たり前。大切な桜さんを失ったから。でも。僕は桜さんとの思い出を、悲嘆の材料にしていなかっただろうか? 嘆く前に他にすることは、なかっただろうか? 僕の大切な人との時間を、豊かで幸せな時間を。僕の最高の瞬間、貴重なひとときを。僕は…。そして…。
「桜ちゃんがいつも気にしてましたのよ。おじちゃんはいつも優しいけど、時々淋しそうだって」
 意外な感に打たれた。子供の観察力を僕は見くびっていたのかも知れない。先生は、桜ちゃん将来はおじちゃんのお嫁さんになるんですって。普通はパパのお嫁さん、ですのにね。と楽しそうに笑った。僕は、はは。と笑うしか出来なかった。ふと、思い出した。
「ご苗字を伺ってませんでした。差し支えなければ…」
 その途端、先生は丸い目を見開いて一瞬止まった。一頻り笑ったあとで、涙目を押さえつつ僕に向き直った。
「ごめんなさい。私は佐倉梓と申しますの。佐倉で結構ですわ」
 窓の外の桜の若葉が光を反射して、佐倉先生の顔を照らしている。来年の桜の花の準備は、もうはじまっているのだな。と僕は漸く気付いた。何もかもが目に鮮やかに飛び込んで来た。桜さんがその光の中で楽しそうに笑っているような気がした。お待たせしました。と僕は心の中で語り掛けた。長い長いトンネルを、ようやく通り抜けたのだった。
 初夏はもうすぐそこまで来ていた。

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