桜筐――はながたみ――
桜の木の下には死体が埋まっている。と書いたのは、梶井基次郎だったろうか。
僕の中には桜がある。居る、と言っていいが、要ると言ってもいい。一緒に暮らすようになって一年たった頃、お腹に宿った小さな命とともに僕の手から飛び立ってしまった存在の名前である。桜の花と一緒に散ったその夜のことを、僕は忘れられずにいる。あれからどれくらいの月日が過ぎたのか。ただ毎日毎日を淡々と生きている。後を追うことは、難しくはないのかも知れない。ただ、中断を要求されもしない命を自ら縮めることは、彼女が許さないような気がして、僕は職場と自宅とを往復するだけの日々を送っていた。車が寄ってくれば反射的に避けるから、まだ命は惜しいのだろうな、と自嘲しながら。
「抜殻みたいだね、お兄ちゃん」
妹の檀(まゆみ)はそう言って、痛ましげに僕を見つめた。まもなく彼女は臨月を迎える。交際していた男性との間に子供が出来、入籍したのは昨年だった。
「お義姉さんを亡くして辛いのは判ってるけど、私はお兄ちゃんにも幸せになって欲しいのよ」
僕はただ肯くしか出来なかった。何も約束出来なかったから。勿論判っているのだ。檀が今の状態を好ましいと思っていないことも、桜さんが逝ってしまったことも。檀は「頑張れだなんて無責任なことは言えない」と言う。僕も「頑張って」という言葉はあまり好きではなかった。声を掛ける方は、所詮人事だと思っているという気がするからである。それ以外に掛ける言葉を、思いつかないだけかも知れないけれど。
花筐という世阿弥作の狂乱物の能の演目がある。「花筐」は平たくいえば花を摘んで入れる籠のことだ。離れ離れになった恋人を慕って彷徨い歩き、御幸の行列に狂い出でる女性。その手にあった形見の籠によってそれと気付いた恋人は、天皇になっていた。彼は彼女を連れ帰り、再び召す…というものである。その話を知った時、僕は「羨ましいな」と思った。
桜が咲く季節は、待ち遠しい。たとえ一週間かそこらしか咲いていなくても、日本列島が桜で満たされる。僕が桜で満たされていたように。白く淡い朱を潜めた花には、じっと見つめていないと捉えることすら危うい程の濃淡がある。風に散る花びらを見るとき、僕はいつも桜さんを初めて桜の木の下で見た夜を思い出す。それは生きているかどうかを危ぶんでしまうほどに白い桜さんの儚げな笑顔を思い出させた。いくつもの春を一緒に迎えるはずだった。亡くなった人を思うことは不毛だろうか? 僕はそう思わない。人を真剣に愛した過去を、あっさりと消してしまえるほど、人間の脳は単純には出来ていないと思うからだ。勿論、不幸にして記憶喪失になってしまうということがありえないとは言わない。でも、僕は忘れたくないのだ。桜さんを。僕が誰よりも愛した女性を。
花筐は花を摘んで入れる籠だという。ならば、僕は桜さんを愛した記憶を花のように摘んでその筐にしまいたい。檀はそうすることを願わないかもしれないけど、今の僕には必要なのだと思う。今年も桜は咲くだろう。そして、昨年とは違う、新たな命を風に舞わせて、散るのだ。風も水も、昨年と同じで何もかも違う。年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず……。桜さんの柔らかい声が僕の脳裏に蘇る。年毎に咲く花は変わらないけれど、花を見る人は変わっていくのね。僕の腕の中でそう呟いた君は、それを判っていたのだろうか。僕を置いて逝ってしまうことを。ずっと一緒にいるという約束を交わした日のことは、これほどにも鮮やかに僕の記憶に残っているのに。自分の都合でなく去った桜さんをどこかで責める気持ちがある。嘘吐き、と。彼女自身はひとつも嘘などついていないのに。
手を伸ばしても届かない、もう二度と。僕の手の中には帰ってこない。生まれ変わりというものがこの世にあるのなら、桜さんが生まれ変わるまでいつまでも待ちたいけれど、夢物語を信じるには、僕は長く生き過ぎた。もう二度と戻らない、そのぬくもりを望むのは、見果てぬ夢ではあったけれど。桜が咲くと僕は出かける。桜の木の下でなら、桜さんに会える気がして。風の向こうで、笑っている気がして。
河津桜。その名を聞いたのは、もう三月に入るころだった。濃い淡紅色の桜だという。桜にもいくつか種類があるが、染井吉野とは違う種であるようだ。大島桜と江戸彼岸桜の雑種である染井吉野は日本で好まれ、桜といえば染井吉野というほどの代名詞でもある。僕が桜さんと歩いた桜並木も全て染井吉野だった。雪と見紛う淡い花弁、桜さんを連れ去ってしまいそうだった桜の風。
ニュースでその河津桜の淡紅色の花弁を見た時、桜さんの声が聴こえた気がした。「行って!」と。僕は反射的に動いた。五分で外へ飛び出し、三十分も経たないうちに、僕は電車に飛び乗っていた。
東京から熱海経由で三時間ほどだろうか。伊豆急行河津駅は少し込み合っているように思えた。伊豆半島の東側で北西には天城山が見え、東には海が控える。海岸へは一キロ足らず。天城峠へは直線距離で十キロと少しだろうか。富士箱根国立公園からも近く、伊東ゆえ温泉も幾つかある。イベントでもやっているらしく、小さな駅ながら華やいだ雰囲気があった。待ち焦がれた春の訪れを喜ぶ人の笑顔は、僕には懐かしいけれども少し眩しすぎて見え、僕は目を背けた。
ふと「踊り子と河津桜の里」という看板があった。満開には少し遅かったようである。散り始めているという話を聞いて、僕は心持ち足を早めた。たかが一分早く着いたからと言って変わるものでもないけれど。
河津桜は、大島桜と寒緋桜の自然交配種と推定されている。この季節のものとしてはかなり大ぶりの、やや色の濃い淡紅色の花は下に向けて開く。伊豆の温暖な気候と寒桜特有の早咲きの特性を持って、二月上旬或いは早ければ一月中にも花を咲かせる桜である。河津川原の枯草に芽吹いた桜の若木を、自宅庭先に植えた人がいて、それがこの桜の原木と言われている。その河津町では数千本の河津桜が植えられているということを、僕はそこへ向かう途中で知った。
本当に桜なのだろうか。紅梅ではないのか? 僕は騙されているのかと疑いそうになった。だが、梅独特のあの香は近づいても漂っては来ない。華やかすぎる色合いは桜色といった慎ましやかなものではなくて、もう少し明るい情熱を加えたもののように見える。桜色がしっとりした京女なら、この河津桜の色は坂東女の逞しさに強い明るさを加えた、伊豆女だった。風に吹かれるごとに頼りなげに花びらをさらわれていくあの桜ではない。途中でパンフレットを貰って文面を拾っていくと、染井吉野のように咲いてすぐに散っていくものではなくて、一月かけてゆっくりと満開になる桜であるようだ。したたかにゆっくりと花を開いていく河津の桜。梅もそういう咲き方をするが、桜は好きでもその種類に疎い僕には新鮮だった。
風に吹かれても木の下に桜色の絨毯は出来ない。ゆらりゆらり。と枝が揺れるばかりである。パンフレットに桜の並木が出ていた。僕はそこへ向かうことにした。濃い淡紅色というと些か矛盾しているような気もするが。寒緋桜のあの濃さを思えばこの色になったことは理解しやすい。紅梅にも似たあの色が大島桜と結びついて、この鮮やかな色を生み出したのなら納得がいく。
川沿いの散歩道を僕は河口を背にして歩いた。菜の花ロード。と書かれた看板が目に入る。その先に「さくらの足湯処」。桜さんは少し冷え性のきらいがあった。冬には一旦入浴しても、寝る前にもう一度膝から下だけお湯で温めていたことを思い出す。入ってしまったら居つきそうな気がして、僕は立ち寄れなかった。
中学校の隣の橋をすぎると、川の両脇は河津桜の並木になっていた。お花見ハイキングコースという、なんだか投げ遣りなネーミングの案内板が見えた。もう盛りは過ぎてはいるけど、それでも適当に人通りはある。僕はゆっくりと歩いた。「踊り子温泉会館」の傍は、丁度トンネルのようになっていた。ここまで来てもやはり河津桜は河津の桜だった。僕は踵を返した。一緒だったなら、と望めもしないことを思って。
自宅へたどり着いたのは、夜も更けていた。十時を過ぎていたと思う。到着するや否や電話が鳴り、慌てて取ると義弟の槐(かい)君からだった。檀の陣痛が始まったという。臨月に入って二週間を漸く過ぎたかどうか。少し予定より早いようだった。僕は電話を切るとすぐさま病院へ向かった。
夜の病院ほど嫌いなものはない。不安に襟首をつかまれて、どこかへ飛ばされてしまいそうな気分になる。迫り来る執拗な程の圧迫感と、緊張感。いろいろな薬品の匂いが混じった、病院特有の匂い。何もかもが嫌いだった。僕から桜さんを奪っていったものだから。
檀は既に分娩室に入っていた。三十分程経過したところだという。何もやるべきことはないけど、僕は槐君と一緒に待った。程なく、槐君の両親に檀と僕の両親も駆けつけた。出産は個人差があるようだから、一概には言えないが、檀は比較的安産だったようである。女の子を無事産んだと聞かされたとき、槐君が誇らしげな顔をしているのが見てとれた。疲れきってぐったりしている檀の顔を伺うように覗き見る。深夜一時を打つ頃、僕は改めて帰宅の途に着いた。
翌日、僕は病院へお見舞いに行った。ぐったりとしながらも檀は小さな命に母乳を与えて幸福そうに微笑んでいた。槐君がその様子をホームビデオにおさめている。僕の姿に気付いて檀は軽く手を挙げた。
「女の子なのよ。お兄ちゃん、抱いてあげて」
真っ赤な肌はふわふわとして、まるで卵のようだった。壊してしまいそうな柔らかさが、愛おしかった。「赤子」とはこういうことなのか、と僕は初めて気付いた。なんと頼りない命だろう。なんと脆い命だろう。滑らかでしっとりとしたその肌にそっと触れると、それまで静かだった子供が火が点いたように泣き出した。僕は慌てて檀に子供を返した。抱き取って、覗き込むように嬰児を見つめながらあやす。慣れないながらも母親としての自覚が芽生えつつあるのが僕にも判った。泣き止むのを見計らって、檀が口を開いた。
「お兄ちゃん、折り入ってお願いがあるんだけどね」
「なんだ、改まって」
檀と槐君は並んで僕に向き直った。ちらりと夫の顔を見て、言葉を続ける。
「槐と二人で相談したんだけど…。お義姉さんの名前を、貰ってもいいかしら?」
あまりにも思いがけなくて、声がかすれた。
「さく…ら?」
「そう」
二人は微笑んでいた。温かな陽射しが差し込んできた気がした。
輪廻転生などありえない。この子は桜さんの血を引いている訳でもない。それでも。
「駄目かしら? 私、お義姉さんに憧れていたの。あんな素敵な女性になって欲しいなと思うのよ」
桜さんは、それを喜んでくれるだろうか? 僕は窓を見下ろした。桜の木に、堅く小さな蕾がついているのが見えた。