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第一章天狼星(シリウス)



 少年の頃見た空はいつも煙るような色をしていた。空を焦がして沈む夕日を飽きることなく見詰めていたのは、いつの頃だったろう。太陽の命が消えていくのと引き換えに夜の帳が優しくかかりはじめて、遠慮していた星達が少しずつ姿を現していく瞬間が好きだった。金星、火星、アルデバラン、プロキオン、プレアデス…。「夏の大三角形」も嫌いじゃなかったけど、僕は冬生まれのせいか冬の星が一番好きだった。特に突き刺さるような鋭い光で僕を圧倒するようなシリウス。冬になると、母親を捜す子犬のようにシリウスを捜す。そして、見つかるとほっとして僕はまた歩き出すのだ。


 二月の空はやたら白くて、どこまでも境界線が見えないような色をしていた。滲むような飛行機雲が空を横切って、ゆらゆらと消えていく。仁と僕は、とりとめのない話をしながらソワソワしはじめていた。
 駅ビルの階段を元気よく駆け上がってくる女の子が見えて、仁は「あ、来たぞ」とほっとしたように僕に囁いた。息せき切って走ってくるのは、遅れたせいだろう。約束の時間を十分程過ぎていた。仁が軽く手を上げると、片手を振る。体勢を崩して今にも転んでしまいそうなよろけ方をしたけど、不思議に転ばなかった。
「よう、ひさしぶり!」
「ごめん、遅くなって」
 ワインレッドのベレーを被った女の子が、仁に向かって頭を下げた。そして僕に向き直って――僕は今でもこの瞬間をはっきりと覚えている――「はじめまして。『春霞(はるか)』です!」とにこっと微笑んだ。息が上がってほんのり朱に染まった彼女の頬は、艶やかで健康的に見え、大きな瞳は躍動的な光を宿していた。
「出掛けに毛布忘れたのに気づいて、慌てて車に積みこんでたら遅くなっちゃった」
 頭を掻いて照れ笑いすると、大きかった目がチェシャ猫みたいに細くなった。仁は気にする風もなく、軽く笑うと荷物を背負い、歩き出していた。
「いいよ、あいつら待たせるとまずいからすぐいこうぜ」
「うん。下に車を停めてるの」
 にっこり微笑んだ彼女の向こうにはどこまでも空が広がり、太陽は白く輝いていた。僕は眩しさに目を細めながら荷物を背負い、歩き始めた。漠然と沸き起こる未来への期待だけを抱えて。

 他のメンバーと待ち合わせて、ハーブ園へ向かったのは、正午を少し回っていた。僕だけが新顔で、簡単な自己紹介だけ済ませると二台の車に六人が分乗する。彼女の親友大野さん、やや寡黙な初瀬川さん、もう一人の運転手で大分訛りがときどき出る藤田さん、そして仁と彼女と僕だった。僕は彼女の車の助手席につき、仁はその後部座席に座った。車を走らせて二十分くらい。ようやくハーブ園の看板が見えた時、駐車場で白いスプリンターの隣にたたずんでいる人影に気づいた。
「松野さん!」
「この距離でよく判るよな」
 呆れ顔で仁がつぶやいた。ようやく最後のメンバーが合流したのだった。
「こんにちは」
 それは吃驚するほど恰好良くて、三十代を半分くらいは過ぎていそうな人だった。ちょっと髪に交じった白髪がいい雰囲気を醸し出していて、一層魅力的になっているような気がした。優しそうな微笑みはそこらにありがちなおじさん臭い笑顔ではなくて、「ダンディ」と言って差し支えない品格がある。渋いナイスミドルといった感じだった。
 挨拶を交わして、ハーブ園の庭を一通り見てまわる。彼女と藤田さんは温室でハーブの苗を、松野さんは鉢を買った。
「くっしゅん!」
「仁くん、大丈夫?」
 ハーブだの香料だのに弱い仁にはちょっと温室は辛そうだった。
「じゃあ食事にしましょうか。ここにはね、喫茶室があるんですよ」
 松野さんはハーブや植物が好きで実際自分でも少し育てているようだった。
「ハーブを使った料理を出してくれるんですよ。私なんかはハーブを沢山使いますので苦手な方は近寄らない方がいいですよ」
 穏やかな微笑みは、紳士という言葉にこれ以上はないほど相応しかった。すすんで彼女が松野さんの隣に座り、僕はその斜め向かいに腰を下ろした。仁は慣れっこになっているのだろうか、笑いながら松野さんの向かいに座った。とりとめのない雑談と、松野さんのハーブの話が続いていた。
 星見のリーダーは初瀬川さんで、今夜の予定を既にたてていた。
「今日は良く晴れたから期待できるんじゃないかな。後は大気の状態次第かな」
「そうだな、遅刻してまで毛布積み込んだんだから、役に立って貰わなきゃな? 春霞」
 仁の言葉に大野さんが追い討ちをかける。
「春霞の遅刻はいつもだよね」
「きっついなあ、昭(あき)は! 確かに認めるけどさ、最近減ったのよ」
「減るのと直るのは別だよ」
 にこにこと割って入ったのは藤田さんだった。
「まあまあ、来れたんだからいいやん」
 確かにその通りだった。


 出会いはインターネットだった。趣味のHPで知り合い、リアルタイムで接続してる何人かの人と同時に意見を交換しあえるチャットで親しくなったのである。僕はまだインターネットを始めたばかりで、何もかもが珍しくて仕方がなかった。ある日、仁と彼女―――ハンドルを春霞といっていたから、この名で呼ぶことにしよう―――がオフ会の打ち合わせをしてたチャンネルに僕が誤って入ってしまった。社交辞令だと思うが、当然のことのように彼女は僕を誘い、二つ返事で参加を決めた。もしこの時、彼女が僕の住所を知っていたら、出会いはまた違うものになっていたかも知れない。少なくとも、この時点で僕に「おいで」とは言わなかったろう。僕の住所を知って彼女は驚いたが、東京からの行き方の説明を事細かに説明してくれ、途中から同じルートを使う仁とうまく合流できるよう、心を砕いてくれた。方向音痴の僕が迷わずに来れたのも、彼女の丁寧な説明の賜物と言える。大まかなことをメールやチャットで毎日のように連絡し、前日だけ電話で細かい打ち合わせをした。
「目印に私、ワインレッドのベレーを被るわ」
 初めて聞く彼女の声に、僕は期待が成長するのを感じていた。
「オフ会、楽しみにしてるよ」
 胸の動悸が電話ごしに聞こえるんじゃないかと心配になるくらいだった。その電話を切ってから半日後、僕は初めてのオフ会に参加していた。


 プラネタリウムは思いのほか人がいなくて、静かだった。時々ちょろちょろ歩き回る小さな子供もうるさいという感じはしない。建物は古かったが、設備はなかなか良かった。冬の星座の特集と、月の満ち欠けについてのビデオを上映していた。説明は子供向きにつくられていたけど、割とよく出来ていて、楽しかった。
「プラネタリウム主張したの、誰?」
 いいセンスだなと思った。
「んーとね、昭。プラネ見たいっていってたから。今度のオフは『知的に』がテーマなの」
 ちょっと上を向いて「いいでしょ」といわんばかりの挑戦的な瞳はまるで猫みたいだった。
「で、幹事は?」
「あはははは! 本当はね、仁くんに押し付けるつもりだったんだけど、結局逃げられたのよ、当日まで参加がはっきりしないからって」
「で、いいだしたのは誰?」
 僕は思わずにやにや笑いながら、畳み掛けるように聞いてみた。
「はい、私です」
 神妙にというよりは、悪戯を指摘された子供が悪びれずに謝っているみたいだった。
 星見のメインは「カノープス」という星で、日本だと地平線すれすれにしか見られず、北限が関東だと言われている。地平線の向こうに姿を隠した太陽のあとがなくなるのを確認して、僕たちは星見の場所に選んだポイントへ向かった。だいたい三百六十度の展望が広がるこの場所を見つけたのは春霞だった。雲がなく、晴れ渡った空に冬の星が瞬きはじめていた。
「毛布持ってきたのに殆ど使わなかったわね」
 春霞が遅刻してまで持ち込んだ毛布は役に立たなかった。何しろ寒くて、毛布を被ってまで星見をしようという奇特な人間が七人の中に居なかったからである。
「車の中で温かいからいいさ」
 仁が慰めるように春霞の頭をちょんと突ついた。
「そうだ、オリオン座の三つ星って、目印になるんだよ。知ってる?」
「目印?」
「丁度ね、ほぼ真東からのぼって真西に沈むんだって」
 大きな瞳が楽しそうに踊っているようだった。
「ほお〜、それは知らなかったな」
 感心したように仁が肯いた。
「あ、見えた!」
 寡黙な初瀬川さんが叫んで、僕たちは一斉に声のほうを振り向いた。双眼鏡を片手に興奮した様子で顔が少し上気してるのが見てとれた。
「あそこに鉄塔があるでしょう? そこからね、右に少しずつ視線をずらしてみて下さい」
「あ、ほんとだ。すごい! 初瀬川さんのいうとおりね」
「位置的にはシリウスのほぼ真下かな」
「あ、あれか!」
 初瀬川さんの誇らしげな顔に優しい微笑みを向けて、春霞は順々に皆が見られるよう世話をやいていた。
「冷えてきましたね」
 藤田さんが肩をすくめて空を見上げる。
「ぬきぃの(温かいの)がいいやねえ」
 春霞はそっと松野さんを振り返った。長い髪が僕の体に一瞬まとわりつくかのように見えたが、僕の服の鳩尾のあたりをそっとかすっただけだった。
「温まるもの、ですね」
 にっこり笑って松野さんはちょっと考える仕草をした。

 辛いものが好きな松野さんのおすすめの店で、ちょっと遅めの夕食はメキシコ料理だった。運転手の二人、春霞と藤田さんだけはアルコールを口にしなかったが、松野さんをはじめ四人はそれぞれにフルーツのフローズン・カクテルを楽しんだ。例によって彼女は松野さんの隣に座り、僕はそこから一番遠い席を選んだ。
「松野さん、干支は丑ですか?」
「丑です」
 当たった事が本当に嬉しそうな顔だった。
「和佐(かずさ)くんは何ですか?」
 いきなりお鉢が回ってきた。
「丑です、松野さんと一緒ですね」
「同じですが、私とは一回り違いますね。私なんてどう老後を生きようかなんて考えてますよ」
「まだお若いじゃないですか!」
 頬を染めながら春霞がそう言ったとき、女性の赤面した顔って美しいんだなと不意に感じた。
「ありがとう」
 微笑んで松野さんは彼女に笑いかけた。
「そろそろ移動しませんか? カラオケでいいですか?」
 浮いた間を埋めるように仁が誰にともなく聞いて、その場は何とか落ち着きを取り戻した。
「カラオケの鉄人が入ってるところがいいですね」
 それで決まりだった。

 お茶を飲むためにファミレスに入ったのは、午前零時を過ぎていた。カラオケは二時間だったろうか。春霞の歌にバックコーラスをつける松野さんは、ちょっとその辺にはいないと思われるほど巧かった。勧められるままに何曲か歌い、気づくとファミレスに行くことが決まっていた。お茶とケーキと珈琲がいくつか並び、ちょっと気怠げな夜のお茶という様相を呈していた。話題の中心はやはり松野さんで―――嫉妬したくもなるのだが、男から見ても恰好いい男というのはそう思う前に感心したくなるのかも知れない―――彼女は熱心にその話を聞いて、頬を染めていた。それは駅ビルの階段を上ってきたあの赤さではなく、もっと中から滲みでてくるような赤さだった。触れてみたい衝動に駆られて指を伸ばして彼女の頬を突つきそうになった瞬間、松野さんが不意に話題を変えて、慌てて僕は指を引っ込めた。僕を見つめてにこやかに微笑む。
「和佐くん、今日はどちらかに泊まるんですか?」
 僕が遠いことを知って春霞がとってくれたホテルに、もう荷物は置いてきてあった。
「はい、駅前のホテルに」
 早めにチェックインを済まさせてくれた彼女の配慮に感謝した。
「荷物はもう?」
「ええ」
「それなら安心ですね」
 それから三十分ほどしてからそこを出た。松野さん達と挨拶を交わし、そこで三々五々に別れることになった。
「春霞、眠い?」
 さっきから夜遊びの虫が騒ぎ出してる仁が猫撫で声を出していた。
「まだちょっとは平気だけど。夜遊び? 飲み?」
「飲みたい」
「昭、呼ぼう」
 大野さんは藤田さんや初瀬川さんと話していた。
「昭、仁くんが飲もうって」
「悪い! 明日家に人が来るのよ」
 残念そうな顔だった。
「お義母さん?」
「そ!」
 何時の間にか僕もメンバーの中に巻き込まれていた。でも結局来れるのはその三人だけだった。


 手玉はグリーンのボールに触れ、そのままコーナーのポケットへ落ちた。ポケットのすぐ傍にあった黄色いボールには僅かに届かなかった。
「惜しかったね、和佐くん」
 チェシャ猫みたいに笑い、悪戯好きな瞳を片方だけ閉じて狙いを定める。フリーになった手玉を掌のなかで玩んでる姿は鼠を楽しむ猫のようだった。
「さあて、わたし」
 細い指でキューを挟む。スッと差し出す瞬間にはもうためらいがない。鮮やかなフォーム、指先が綺麗にブリッジを作る。今にも舌なめずりしそうな猫の瞳が細くなり、狙いを絞っていく。シュ、シュ、シュ。そして最後に力をこめる。
 カン!
 手玉はグリーンのボールに当たり、グリーンは黄色に当たった。そして、いまでも信じがたいのだが―――黄色いボールはコーナーの反対側のポケットに静かに落ちていた。
「ヒューッ。かっこいー!」
 仁が口笛を吹く。濡れたような睫毛が微かに震えて、彼女の瞳は露を含んだかのようにみえた。微笑みを湛えた口元が皮肉っぽく歪み、細い指先がキューをゆっくりと降ろしている。
 不意にふらつきそうになった。
「和佐くん? 大丈夫?」
「いや、大丈夫。ちょっと飲みすぎたかな。頭を冷やしてくる」
「そう?」
 僕は早足で店を出た。東の空を見上げると、春の星が上ってきていた。僕はいつしか捜すのをやめていたことにふっと気がついた。頭を巡らすと傾き加減のシリウスが綺麗だった。
「焼き焦がすものって意味なんですって」
 振り向くとすぐ近くに傾き加減のベレーが見えた。

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