トム物語
一
よく晴れた、初夏の日のことでした。
あんまり天気がいいので、トムくんは、公園を散歩していました。
公園を歩いていると、親子連れが目立ちます。
お父さんやお母さんに、肩車をしてもらったり、おんぶしてもらったりしている子供たち。
トムくんは、羨ましくなりました。トムくんは、物心ついた時にはもう、お父さんやお母さんはいなかったからです。
夕暮れの公園をトボトボと歩いていくトムくんは、とても寂しそうでした。
家に帰ると、余計に寂しく思われました。
誰もいない家。誰も待っててくれない家。
トムくんは、旅に出ようと思いました。
格別、当てがあるわけではありません。でも、今までと大差ないような気がします。それに、何故か知らないけど何処かに、自分を待ってくれる人が一人ぐらい、居てもいいんじゃないかな、とトムくんは思ったのです。
憧れのシェリーちゃん以外のみんなに、旅に出る、と挨拶をしにいきました。
どうしてだか判らないけど、何となくシェリーちゃんには、知られたくなかったのでした。
戸惑いましたけれど、結局シェリーちゃんには知らせないまま、トムくんは荷物をまとめ、生まれてからこのかた、ずっと住んでいたふるさとのまちを後にしました。
そうそう、言い忘れていましたが、トムくんは猫です。
近所のみんなから、お餞別代わりにもらった、お魚やら鰹節やらを小さな風呂敷に包み首に巻いて、トムくんはどんどん歩いていきました。ふるさとのまちは、どんどん小さくなっていきます。そうすると、何も言わずに出てきてしまった、シェリーちゃんのことが気になってしまって、トムくんは後ろを振り返り振り返り歩いていきました。
となり町につく早々、トムくんは、みんなにもらったお魚を食べようとしました。
ずいぶん歩いて、お腹がすいたからです。
包みからお魚だけを出して、食べようとしました。
その時です。
木の陰やブロックの陰から、たくさんの猫たちが、トムくん目掛けて不気味な声で唸りながら近寄ってきました。
トムくんは、腕に自信があったのですが、何にせよ多勢に無勢、一目散に逃げました。
逃げても逃げても猫たちは追ってきます。爪で引っかかれ、噛みつかれ、トムくんは風呂敷を奪われてしまいました。
命からがら逃げて、トムくんは迷子になってしまいました。おまけにもう暗くなってきていて、どこがどこだか判りません。トムくんは、次第に心細くなってしまいました。今夜寝る場所も、まだ見付けていないのです。
明るい光が、道のほうまで漏れている家があって、トムくんはその中を覗きました。
温かそうなごはん。お父さんとお母さん。そして、幸せそうな子供たち。安らぎ、とか和やか、というのはこんな雰囲気でしょうか。とっても楽しそうです。
シェリーちゃんと、こんなふうになれたらなあ。
子供と毎日遊んで、奥さんも大事にしてあげるんだ。トムくんは、心からそう思いました。
二
明るいスカイブルーの空に、羊のような白い雲が浮かんでいます。 トムくんは空を見上げて、今はもう遠くなってしまった、シェリーちゃんのいるふるさとのまちを思い浮べました。
トムくんが旅に出て、もう一ヵ月になります。トムくんは、そのあいだにいろんなことを学びました。
たとえば、黒猫のミィという大人っぽい雌猫に、旅に出ても、人間のトラックなんかにまぎれこめば、疲れずに遠いところまで行けるということを聴いたり、ちょっとシェリーちゃんに似ているシャム猫のシャーリーに、旅猫は裏路地へ行くと土地猫に襲われてしまうことなどを教わったりしました。
そうそう、トムくんの種族を言い忘れていましたね。トムくんは、雄はめったにいないという三毛猫族の出身です。
さて、トムくんはある夜、人間のトラックに乗り込みました。車を外から見て、外装の気に入ったものがあったので、それに乗ることにしました。トムくんは知りませんでしたが、この車は実は冷凍車でした。
人間に隙が出来るのを見計らって、トムくんはトラックに乗り込みました。そして、しばらくすると、重い冷たい音を立てて、扉が閉まりました。その途端、トムくんはひどい寒さを覚えて、積み荷の上に倒れました。そして、積み荷を見て、トムくんはこの車が冷凍車であることを知りました。乗り込む時には人間に見つからないよう必死だったので、荷物の確認までは出来なかったのです。慌てて扉を叩いたり押したり爪でひっかいたりしましたが、鋼鉄の扉は重くて堅くて、トムくんの思うようにはなりません。
トムくん絶体絶命の大ピンチです。犬ならともかく、猫は一応暖かい地方の動物です。その猫のトムくんに、この寒さに耐えるだけの力があるでしょうか。
体中の力が、急速に抜けていきます。極寒の寒さのなか、トムくんは、憧れのシェリーちゃんのことを想いました。一度でいい、シェリーちゃんに会いたい。
「シェリーちゃーん(猫語ですので、ミャーオーという声にしか聞こえません)」
トムくんは力一杯叫びました。喉も張り裂けんばかりに、シェリーちゃんの名前を叫んだのでした。
その時、トラックの運転手がトムくんの声に気付いて、扉を開けました。トムくんは走り出ようと思いましたが、寒さの為でしょうか、体はまったく動きません。運転手はトムくんに近付いてきます。トムくんは恐怖に怯えました。未だかつて味わったことのない恐怖でした。
殺される! トムくんがそう思った瞬間、運転手はトムくんを腕に抱え、トラックを降り、トムくんを毛布に包んでくれました。殺されると思っていたトムくんは驚きました。
何故運転手は救けてくれたのでしょう。トラックに入りこんだ、「悪い猫」の筈なのに。
実はトラックの運転手は、大の猫好きでした。どうやら運転手がついこの間まで飼っていた猫にトムくんが似ているらしいのです。それで、トムくんを助けてくれたのでした。
運転手は川崎という名の人でした。川崎さんはトムくんを助手席に乗せ、トムくんを相手に愛猫だった三毛猫メイの話をするのでした。
メイは何が好物でこういう癖があるんだとか、川崎さん以外の人からは餌を受け付けないんだとか、嬉しそうに、でも少し哀しそうに話をしていました。
川崎さんは、メイが他の人から餌を受け付けないせいもあってか、いつもトラックの助手席にメイを乗せていたのです。でも、メイは他のトラックに轢かれて死んでしまったのです。それも、川崎さんの目の前で。
トムくんは、メイによく似ていました。それで、川崎さんは嬉しいような寂しいような気分を味わっているのかも知れません。だって、メイによく似た猫が、メイのように助手席に座って、自分の話を聴いているのですから。
トムくんは一生懸命励まそうと思い、やたらミャーミャー鳴きました。川崎さんは、そんなトムくんを見て、余計寂しそうな顔をするのでした。もしかしたら、メイも、同じようにミャーミャー鳴いて、励まそうとしたことがあるのかも知れません。
ラジオが、ヒット曲を流していました。トムくんは、ノリのいいその曲にあわせて歌い(といってもミャーミャーとしか聞こえないでしょうが)ました。そうすると、川崎さんは驚いた様子でトムくんを見つめていましたが、やがてトムくんと一緒にその曲を歌い始めました。二人(?)のコーラス(?)は、さして広くもないトラックの運転席いっぱいに響いています。そして、その声はトラックの天井を突き抜けて、お空のメイに聞こえるかのように、トムくんには思えるのでした。
三
ついさっきまで晴れていた空は、どんよりと曇り、今にもわめいたり怒ったり、泣き出したりしそうです。
人間のことばで、雲がこういう風に怒るの、「かみなり」って言ったかな、とトムくんは思いました。
トムくんが、トラック運転手の川崎さんの助手席にいついて、はや一週間。いやそれとも二週間でしょうか。
なにしろ、生活が不規則なので、時間が良くわからないのです。
おまけに、ちょっと立っただけで眩暈がします。最近、運動不足だからでしょうか。トムくんは、少しこの生活にあきてきていました。だって、一日中、何をするわけでもなく、助手席に座り込んで、ただ川崎さんの話やラジオを聴いているぐらいなのですから。
でも、トムくんは、今の川崎さんをほっぽって、旅に出てしまう気にはなれません。それに、旅猫だ、と言ってみても、猫語のわからない人間に、何を話したって、ただ鳴いている、と思われるだけでしょう。
トムくんは考えに考えました。そして文字というものを思いつきました。なんとか人間のことばを覚えて、川崎さんに手紙を書けば、きっと川崎さんもわかってくれるでしょう。
でも、とトムくんは思いました。ここはトラックの中です。どうすれば文字を覚えられるのでしょう。川崎さんだって、一日中トラックの運転をしていて、文字なんて、知っていてもめったに使わないでしょう。それに、トムくんが文字を知りたがっていることだって、知らないのですから(猫ですしね)教えてもらえないでしょうね。トムくんは奇策に出るしかありませんでしたが、その奇策を思いつけないのです。
そんなある日、川崎さんは、トムくんを、小さなアパートへ連れて行きました。後でわかったのですが、それは川崎さんの家でした。
川崎さんの家には本が山積みになっていて、原稿用紙が散らばっていました。実は川崎さんは、作家志望で、トラックの運転手はアルバイトだったのです。
トムくんは、字を覚えられる、と思いましたが、先生も手引き書もありません。どうしたらいいのかわからないままに、いたずらに日々は過ぎていきました。
その日、川崎さんがトムくんを膝の上において、こう言いました。
「なあ、チビよぉ。お前、どっかの飼い猫なんか?」
トムくんは猫語で「はーい、そうでーす」と言いましたが、猫語のわからない川崎さんには、ただ「ニャーニャー」とだけしか聴こえません。それでも肯いているように感じたのでしょうか。
「そうだよなぁ。お前、首輪してんもんなぁ。鈴までつけちゃってよぉ……」
そう淋しそうに川崎さんは微笑んで、そこら辺にあった紙に「あ」と大きく書きました。
「チビ助。お前、この字なんて読むか知ってるか?『あ』っていうんだぞ。覚えとけよ」
トムくんの考えを察知していたんでしょうか。川崎さんはそんなことを言いました。どうやら、メイにも、文字を教えていたらしいのです。しかしメイは、「し」と「い」しか書けなかったみたいです。
川崎さんに言われるまでもなく、トムくんは必死に文字を覚えました。そうして、あの冷凍車事件(?)から一年後、「五十音」をすべて書けるようにまでなり、トムくんは川崎さんにお礼とお別れの手紙を書いて、川崎さんが寝ている間にそっとアパートを出て、再び旅猫となりました。
川崎さんの驚きようったらありません。猫が、ですよ。猫が書き置きして出て行ったんですから。そして、大きなため息をついて、川崎さんは空を見上げました。
そうそう、トムくんの手紙をお見せしましょう。ちょっと読みづらいかも知れませんね。
かわさき さん え
ぼく わ とむ とゆう たび ねこ です
いままで ありがと ございます
ぼく わ たび でます
めいさん かわり に いたけど
もう かわさき さんわ めいさん いなく ても
ぼく いなく ても やって いける おもう ます
とおく から みまもって ます これから も
いい おはなし たくさん かいて いい おはなし や
さん なって ください
とむ
川崎さんは思いました。もしかして、あれは、メイがよこしてくれた、お使いなんじゃないか、と。いつまでもクヨクヨしてる自分をはげますために、天国のメイが、よこしてくれたんじゃないか、と。
トムくんとしては、そういうつもりではなかったんでしょう。でも、川崎さんはトムくんを思い出すたび、生きる勇気と、頑張ろうとする気力が湧いてくるのでした。そして、向学心も湧きおこってくるのです。
だって、トムくんは、ひらがなだけとはいえど、はじめて手紙を書いた猫、なんですよ。