第二章英雄の末裔
二、ペルセウスの末裔
六
混乱に巻き込まれたバルディヤが、逃げおおせたか、それともどさくさに紛れて殺戮されたか、はっきりしない。が、恐らく後者だったことだろう。
マゴスの叛乱として歴史に名を残すことになったこの政争劇は、いち早くマゴス僧の殺戮を開始したダレイオスら七人のグループによって幕が下ろされることになった。キュロス直系男子の血胤が途絶えた今、ペルシア王という存在についても問い直されるべきが来ていた。既に七人の中でも次の政権に関する具体的構想を持っていることを表明している者がいた。そのうちの一人が今回の首謀者でもあったオタネスである。彼は独裁制の国家に居住する貴族としては、極めて異質といえる構想を打ち出していた。
「我々のうちのただ一人だけが、独裁者となるのは望ましくないと、私は思っている…」
ペルシアでは非常に稀なことではあるが、オタネスが提案したのは民主主義である。つまり、暴虐の王一人が――この場合、逝去したカンビュセス二世を念頭に置いているだろう――統治する場合、どれほどの痛手を民と国家が負わねばならないかと考えた上でのことである。人は変わる。立派な、徳のある人物だと思われていた人でも、一旦至高の座を占めればかつての心情を忘れ、驕慢に溺れかねない。秩序ある国制を望むのであれば、寧ろ万民同権(イソノミア)が相応しい。と。オタネスは重々しく意見を述べた。それに反する見解を述べたのは、メガビュゾスである。彼が主張したのは選抜された人々による寡頭政治であった。
「独裁制を廃することには賛成であるが、何の役にも立たぬ烏合の衆ほどに愚劣なものはない。優れた人材を選抜しこれに主権を付与する。我らがその中に加わるのは当然だが、もっとも優れた政策はもっとも優れた人々によって行われるものだ」
三番目に口を開いたのはダレイオスである。その勿体つけたパフォーマンスに眉を顰めた者もいたが、その態度は確かに一般受けするものであった。
「私は独裁制が一番優れていると思う…」
訥々と彼は語り始めた。民主制にせよ、寡頭制にせよ、複数の人数で政治を執り行った場合、幾人かの間に敵対関係が生じ易く、互いに意見を通そうとしいがみ合いになる。そしてどの場合においても最終的に落ち着くのは、独裁制だ。と。彼はそれを賛美するだけではなかった。即ち、まだ記憶に残る「父なる王」を引き合いに出したのである。つまりは偉大なる大王キュロス二世。そのキュロスによるペルシア解放は、彼らペルシア人にとって、大きな事件であった。キュロスによってメディアから自由になった、ペルシア人の記憶に、ダレイオスは訴えかけたのである。トドメは父祖伝来の慣習という言葉であったが、キュロス二世に直接触れる機会を持っていた七人の同志にとって、それはいわずもがなの威圧感をもたらした。ダレイオスの言葉に、残りの四人が加担したとき、オタネスは自分の説が容れられぬことを悟り、同志に向って自分の希望を述べた。
「かくては籤か選挙か、それとも別の手段によるかはともかくとして。我らのうちの誰か一人が王になる外はないだろう。だが、私には王位を争う意思はない。人を支配することも、支配されることも私は好まぬ。私は支配者の地位を得る権利を自ら放棄しよう。ただし、一つ条件をつけたい。それは、私も、そして我が子孫も、代々に渡って何人の支配も受けぬということだ」
至高の座を得る権利をみすみす見逃すというオタネスの言葉は、それ以外の六人が王位を獲得するチャンスを増やすものでもある。七分の一が六分の一になるだけでも確率はほんの少し高くはなる。王位争いを自分から降りるというオタネスの条件を、六人は承諾した。
早々にレースから降りたオタネスを除いた六人は、公平に王を決定する方法について協議を行うことになった。それと同時に、クーデターの功労者たる七人の同志について、特権を付与することが定められた。特に同志を糾合しまた王位を辞退したオタネスとその子孫に対しては、毎年王から衣装を含めた品が下賜されることになった。また、七人全員に対して共通して決められたことは、第一に取次役を通さずにいつでも王宮内に入ることが許されること。唯一の例外は王が女と同衾している場合で、それ以外の場合はいついかなるときでも取次役人を通さずに王に会うことが出来るのである。第二に、王はこの七人の同志の家以外から妃を迎えてはならぬとした。外戚となるべき家をここで制限した訳である。
さて、一番重要な王の決定については、ある意味神意を問うような色合いのものになった。つまり、夜明け前に一同騎乗して郊外へ出掛け、日の出とともに嘶いた馬の騎手を王とする、というのである。それが決められたあと、同志は翌日に備えて別れた。一人厩舎の前に佇んだのはダレイオスである。
「旦那様。何か気がかりなことでもおありなのでしょうか」
ダレイオスの馬丁をつとめるようになって長いオイバレスは、少々頭の回転が早い。主人から翌朝の遠乗りについて打ち明けられると、にっこりと笑う。
「旦那様は、王になりとうございますか」
満面の笑みを向けられたダレイオスは、少々不機嫌になりつつも「無論だ」と短く答えた。
「ならば、私にお任せ下さい。きっと私が旦那様を王にしてさしあげます」
確信に満ちたその様子に少々疑念を憶えつつも、ダレイオスは馬丁が呪いか何かでもやってくれるのだろうと軽く考えた。
「ならばすぐにでも手配をしてくれ。王位が定まるのは明日なのだ」
「かしこまりました」
オイバレスは鄭重に頭を下げると、ダレイオスの乗馬が気に入っている牝馬をまず郊外へ連れ出した。
高い空に輝く星々が一つまた一つと消えはじめていく。藍色の絵の具を水に溶かしたような色が少しずつ白み始めた頃。ダレイオスを含めた同志一同六人は、約束通り馬に跨って現れた。郊外にさしかかった頃、青い闇を突き破る太陽の最初の一閃が地上を照らす。その瞬間、まるで決められていたかのようにダレイオスの馬が勇ましく嘶いた。
「おお……」
「これは…!」
ダレイオスを除く五人は、その場で馬を降り、新王となったダレイオスに対して拝跪した。
「我らが王よ…」
感に耐えぬといった風情で声を詰まらせた者もいる。オイバレスはその様子を少し離れた所から見て、ほっと胸を撫で下ろしていた。手はダレイオスの乗馬が気に入っている牝馬の手綱が握っている。昨夜、彼はこの辺りに牝馬を繋ぎ、ダレイオスの乗馬を牝馬すれすれにぐるぐると引き摺りまわした。そしてダレイオスの乗馬が十二分に欲情したのを確認した上で、放して番わせたのである。つまり彼の世話した馬は、極めて即物的ではあるが、牝馬の匂いに嘶いたのであった。しかしそのようなことは六人の同志には判らない。ただ、あたかもダレイオスが神意によって選ばれたように見えた。
新しい王として、ダレイオスは宮殿に入った。歓呼の声が城内に溢れ。城壁に当たって音が増幅されているようだ。新王は緊張しつつも、侮られぬように威厳ある微笑みを浮かべ、落ち着きのある態度を心がけた。そのまま後宮へと足を運ぶ。重い扉をいくつも越えたその場所で彼を待っていたのは、「王の女」アトッサであった。
「お待ちしておりましたわ、ヒュスタスペス様の若君」
滴り落ちる程の妖艶さに、息を呑まずにいられる者はおるまい。ダレイオスはごくり。と咽喉を鳴らし、そのまま無言で少々強引に女の腰をかき抱き唇を奪った。乾いた唇から伝わるのは、性急な程の情熱というよりももう少し粘った何かであった。口付けを十分に楽しみ、ついでにアトッサの柔らかく豊満な胸の感触も思うさま楽しんで、漸く身を離す。
「傾国の名に値する女だ。アトッサ」
切れ長の目がいつもより少し潤んで、そして上気して見えるのは、先程の口付けのせいかも知れない。
「お褒めに預かりまして光栄ですわ、私の王」
「待ちかねた……」
アトッサの身を申し訳程度に覆っていた薄い布がそっと取り除かれる。白い肌が夜気に晒されて、露を帯びたように瑞々しさを増す。豊満ながらも形の整った白い乳房が、荒々しい武人の唇に貪られているのを見るものは居ない。くぐもったような声が途切れとぎれに白い咽喉から漏れ、灯火の影がアトッサの上で揺らめく。そのアトッサの目尻から、透明なものが一筋流れ落ちて、紅唇がそっと動いた。バルディヤ、という形に。
ダレイオスは、こうしてペルシアの新たな王として即位した。それから三十数年程の間、彼は王としてペルシアという大帝国に君臨して、統治することになる。その政治の最大の特色は王の道と呼ばれる幹線道路の建設と、王の目、王の耳と呼ばれる役人の設置だろう。外政に関しての評価はともかくとして、内政に関してのそれは極めて高いものとなった。後世同じ名を名乗った王が他に二人いたことで、彼はダレイオス一世と呼ばれることになる。そのダレイオス一世の即位は紀元前五二二年のことであった。