第二章英雄の末裔

一、ヘラクレイダイ




 ラケダイモンつまり古代スパルタについての話をすすめよう。
 ヘラス(ギリシア)では、都市国家ごとに全く異なる暦を使っており、その月の名や日数についてもかなりアバウトだった。単位や貨幣についても統一がなされていないのは止むを得まい。度量衡を現代のものに換算して考えたとしても、金銭の価値そのものが現代とは大きく異なる。それでも基準となりうるのは、やはり商工業が発達した都市国家(ポリス)の度量衡だったろう。たとえば、アテナイ。芸術と学問が花開いた都だが、アテナイに対抗する都市としてあまりに名高いスパルタは質実剛健で知られ、商工業があまり発達しなかったというよりは、必要としない状態に自らを作ったと言った方が正しいかも知れない。農業中心の貴族政都市国家であった。
 ヘラスでは、祭礼というものは必要不可欠のものであった。ラケダイモンでは、有名な祭礼が判っているだけで三つあり、その何れもが春から夏までの時期に集中している。まず最初に行われるのは、現代の暦で五月末から六月初めくらいにかけて行われるもので、ヒュアキンティア(ヒュアキントス祭)である。アポロンとヒュアキントスを祭ったもので、ギリシア神話ではアポロンと円盤投げに興じていた美青年ヒュアキントスが、アポロンの投げた円盤に当たって打ち所が悪く死んでしまい、アポロンが彼を悼んだということになっている。それはヒュアキントスを愛していた西風の神ゼピュロスが、二人の仲睦まじい様子に嫉妬して起した風の為であったともいう。結果ヒアシンスという花が美青年ヒュアキントスの血から誕生したということになっているが、もう少々詳しく調べると、どうもヒュアキントスはスパルタ南方の集落アミュクライの土着の神であったようで、大地と深く関わりがあり毎年の植生のサイクルを象徴しているらしい。この土地出身のスパルタ兵は、出征中も祭に参加することが出来るという権利を有していた。祭は三日ほどあり、その中日にはスパルタからアミュクライまでのパレードなどもあったらしい。蛇足ながら、ヘラスでは、男性同士の愛は恋愛として許容されていた。プラトニックなものか否かについては、それぞれのカップルの自由だったろうが、男女の恋愛よりは美少年とそれを導く程度の年頃の人物との、人格を高め合う愛というものの方が世間的には認知されていたようである。
 次に、ギュムノパイディアイ(裸の歌舞の祭)。双子神(ディオスクロイ=双子として誕生した神々。この名で呼ばれる神として有名なのは、他にスパルタに縁の深いカストールとポリュデウケスがいる)アポロンとアルテミスを祭った体育祭である。現代の暦で七月末くらいに開催された。参加を許されたのはスパルタ市民であるが、未婚男性の見物は不可とされた。数日間に渡る数多くの競技は、戦場での耐久力を証明するものである。最終日には五人の監督官(エフォロイ)を先頭に、大パレードが行われた。これは紀元前六六八年頃、スパルタが大敗北を喫した戦いののち、内外の混乱をおさめるために催されたという説がある。
 そして最も有名で壮大な祭礼は、カルネイアである。毎年盛夏に行われるもので、アポロン・カルネイオス又はアポロン・カルノスを祭った祭礼とされる。カルネイオスはアポロンとその母に育てられた土着の神という説があり、カルノスはアカルナニア人の預言者で、カルネイオスの祭司とされる。ヘラクレスの子孫に殺され、この殺人はアポロンの怒りを招いた為、アポロン・カルノスとして祭られ、アポロン・カルネイオスと一体化したという。カルネイアの時期は現代の暦に換算して、八月下旬頃から始まる。八日間程の祭礼の最終日が満月になるよう、予定が組まれていた。これはドーリス人の他の諸国でも開催されたようだが、一番有名なのがスパルタの祭礼であったらしい。かなり大規模でかつスパルタでは神聖視された祭礼で、この祭の期間中の出征は絶対禁止とされていた。重装歩兵の模擬戦的色彩が濃いものであったが、祭には葡萄の走り手(スタフュドロモイ)を追いかけて捕まえる競技や、若い男女の踊りなどもあった。スパルタはその習慣や風俗に関して詳細な記述をしなかった為、現在では資料が非常に少ないのだが、それでも僅かに伝わる情報の端々から、それが国を挙げての華やかな祭であったことは窺える。余談ではあるが、このカルネイアのすぐあとに、現代オリンピックの元となったオリュンピア競技が開催された。ヘラス全土から人々が集まるこの競技会は、四大競技会と呼ばれたうちのもっとも有名なものである。他にイストミア、ネメア、ピュティア(デルフォイ)があって、開催時期や年度に多少の違いがあった。イストミアやネメアは二年乃至三年毎であり、オリュンピアとピュティアは四年毎である。元々ピュティアは八年毎であったが、クリッサとの戦いに勝利したデルフォイがその戦勝記念として、従来の音楽や詩、舞踊などの競技に加えて、体育競技を取り入れた祭儀に改めた上で四年に一度としたという。なお、イストミアは春に開催されたようだが、ネメアとピュティアに関しては明確に時期を書いた文献をいまだに発見出来ていない。

 スパルタは、ドーリス系である。ドーリスは、三つの部族(フュライ)に分かれていて、それぞれをヒュレイス、デュマネス、パンフュロイと言った。二人の王がその部族のどこかに含まれていたのか否かは不明だが、部族は相互の規模と地位に差がないことを原則とし、その都市国家の役人選出や軍隊編成の母体となった。
 スパルタ=ラケダイモンの構成人員は、まずスパルタ市民(スパルティアタイ)。ドーリス人であり、成年を迎えた男性である。紀元前二四四年頃で七百人だったというが、人口が増えないことに苦しんだスパルタであったから、二、三百年程遡っても然程違いはないかも知れない。
 次にその配偶者や家族。奴隷ではなく自由ではあるものの、参政権は持たない。それぞれの立場などによっていくばくかの義務を負う。
 それから周辺民(ペリオイコイ)。「スパルタ市民」以外のラコニア地方(ラケダイモン)在住ドーリス人若しくは先住者アカイア人の一部である。自由身分であり、奴隷ではない。参政権は有しないが自治権を持つラケダイモン成員であり、従軍の義務がある。スパルタ市民の約四倍程度の人員が居たということだから、三千人弱というところか。
 最後に、ヘイロタイ(ヘロット)。奴隷である。従属的身分であり、スパルタでは皆国有奴隷である。当然ながら参政権はない。このヘイロタイは国有奴隷として主に農業に従事していたが、スパルタ市民の十倍の人数がいて、時々叛乱を起した。それを恐れたスパルタ市民は、しばしば特に頑強なヘイロタイを選んで殺傷している。スパルタ市民となる青年が一人前と認められる際の最後の試験には、このヘイロタイを一人殺すことが課題の一つとして与えられた。このヘイロタイの叛乱は時としてスパルタを大きく揺り動かすことになった。

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