白虹
五
「面倒だな…」
一人頭を抱えているのは、勿論碧玉である。自身の婚儀について、思わぬ事態が発生したことに、正直どう対応すればいいのか悩んでいた。
「大軍に向かって斬り込めと言われた方が遥かに楽だ」
そう憮然と呟いても応えるものはない。長老の書斎から退出したあと、彼は自分の部屋へ引き取った。勿論弟達の稽古の相手を務めてもいいのだが、こんな状態では稽古に集中出来ず、弟達に怪我をさせてしまいそうだった。二人の家宰のうち、夏信は既に報告の為叔牙の下へ戻った。顔士犀は邑に一室を与えられて数日滞在し、碧玉の返答を携えて令狐家へ戻ることになっている。夏信が届けてくれた弟達の手紙を、封も切らずに机に放る。
いっそ……。
部屋の外で足音がして、碧玉は振り向いた。扉を叩く者が居た。
「誰だ?」
「顔士犀です。…良ければ少しお話がしたいのですが」
扉を開けると、顔士犀と、その後ろに白玉が控えているのが見えた。
「ご不審にお思いでしょうが。お嬢さまはとある権力者につけ狙われておりまして。旦那さまはいつも『安心できる青年が居ればたとえ遠方の者でもいい、嫁に行かせてしまいたい』と仰せでした。この度ならず者に襲われたのもその権力者の差し金でございます。本来ならかどわかされ、連れ去られてしまうところでしたが、お嬢さまを一目見て、我が物にしようと企んだ者がおりました為に、碧玉殿のご活躍に救われることとなったという次第でございます。まさに災い生じて福と成す、というもので」
立て板に水、とまではいかなくてもかなり勢いのある喋りっぷりに、些か辟易しながら碧玉は話を聴いていた。とりあえず嘆願らしきものを一通り聴き終えると、立ち上がって扉を示した。
「顔家宰殿。申し訳ないが、急な話で私も少し混乱している。一人でゆっくり考える時間を頂きたいのだが、お引き取り願えないだろうか?」
にべもない、とはこのことかも知れない。
「ああ、これは配慮のないことで。誠に申し訳ございませぬ。ごゆっくりお考えになって、お決め下され」
帰り際、顔士犀の指が白くなって震えていることに気付いた。その時、碧玉は過去に同じ光景を見たような気がした。
顔士犀が立ち去り、暫くしてから碧玉も部屋を出て行った。その部屋に足音を忍ばせてやってきた者がいる。人影の有無に注意し、音を立てぬよう扉を開けて体を滑り込ませる。扉が閉まるとその内側で、口の端を釣り上げて笑うような顔を作った。
昼寝をする気分でもないし、稽古をすれば相手に怪我をさせそうだ…と神殿へ向かった。不信心者の呼名も高い碧玉が神殿へ向かうなど、新年と祭礼の時くらいである。堅牢な石造りの神殿は館を挟んで湖とは反対側にあり、少し高台になっていた。碧玉の昼寝を白玉が真っ先に見つけた理由がここにある。
幾つ目かの角を曲がった時、危うくぶつかりそうになって、碧玉は相手を見た。良く動くくりくりとした琥珀色の瞳と、柔らかな金髪……白玉・翠玉・黄玉の母方の従妹にあたる、藺水玉である。
「……!!」
神殿では声を上げてはならぬ。驚きの悲鳴をあわや寸前で飲み込むと、丸い瞳を更にまるくして碧玉を見つめ、目を瞬かせて首を傾げた。ふわっとした金髪がその動きに伴って揺れる。幼さの残るその仕草に微笑ましさを感じながら、碧玉はその耳にこっそりと囁いた。
「長老達がうるさいんでな。避難しに来た。夕刻まででいいから、暫く匿って貰えないか?」
笑いを含んで静かに肯くと、碧玉の手を取って奥へと誘った。
奥の部屋には白玉を含めた少女達がいた。巫女である白玉の下に人は集まりやすい。巫女見習である紅玉だけでなく、虞紫玉や鮑黒玉も集まってきていたが、少女達が集まっているのは、お喋りの為だけではなかった。秋の祭礼で使う衣装と小道具とを用意しているのである。
海一族の祭礼は、新年と、春と秋に執り行われる。春だの秋だのと言っても年間通して気温差があまり生じないこの海邑では、季節としての名前というより、その時期という概念の方が強い。春の季節には祖先を祭り、秋には五穀豊穣を祝い感謝の祈りを捧げ、大晦日から新年にかけては篝火を焚いて新しい年を祝う。その都度に巫女は舞を奉納する。白玉が走り回っていることなどありえないが、なかなかに忙しい身分なのである。
秋の祭礼まで、あと一月を切っていたろうか。そんなことを漠然と考えながら腰をかけようとすると、押し殺した声が聞こえた。
「大哥ったら…」
祭礼で使う衣装用の布に、足跡をつけてしまったようである。
「罰として、秋の祭礼のお手伝いをさせますからね!!」
腰に右手を当て、左手の指を一本だけ立てて、黒玉が詰め寄る。赤い髪は逆立ち、蒼い瞳は冷たい炎を宿して鎮座している。その剣幕と迫力に呑まれて、碧玉は思わず肯く。「しまった」と思う間もなく、黒玉がにんまりと勝ち誇ったように微笑んだ。蒼い瞳が人の悪そうな笑みを浮かべている。
「じゃ、お神楽をお願いしますわね、大哥」
明るく笑い声を立てる黒玉の隣で、碧玉は先程の比ではなく、真剣に頭を抱え込んだ。それを見て、紫玉や水玉もつられて弾けたように笑い出した。
夕方、全ての稽古が終る時間に碧玉は居間へ辿り着いた。稽古をしてやれなかった分、お茶の時間に体を空けておくくらいのことはしなければなるまいと思ったからである。既に海姓の子供たちは揃っていた。白玉が例によってお茶とお菓子を用意している。
「あっ、大哥!!」
椅子を飛び降りてすたたたと走り寄ったのは、黄玉である。白玉の小さな弟は、嬉しそうに両手を目一杯広げて碧玉の足を抱きしめた。
「……歩けないぞ」
「大哥、足止め!!」
憮然とした顔で黄玉の首根っこを掴んで摘み上げると、今度は碧玉の頭に抱きつこうとしてじたばたと空中で足をもがく。
「黄玉は本当に大哥が好きねぇ」
「小さい子って大きい人が好きだものね」
仕方がないので、椅子に掛け、黄玉をその膝に載せた。
「お話は?」
「とりあえず済んだ。……今日の菓子は二人で作ったのか?」
「いえ、翠玉達三人よ」
道理で、形が崩れている訳だ。と首を竦め、一つを手に取って玩びながら口に放り込む。味は不思議にまともだった。それをどうとったか、黄玉が自慢げに笑った。
「今日は相手をしてやれなくて悪かったな、翠玉」
「長老のお呼びでは拗ねることも出来ませんよ。明日は稽古つけて頂けるのでしょう?」
「お前に稽古をつけて貰うことになるかも知れんがな」
根が真面目な翠玉のことである。かなり上達したろう、と碧玉は思う。
「大哥がいないと駄目ですよ。団栗の背比べでは稽古になりゃしません」
そういって穏やかに微笑む翠玉は、白玉に本当に良く似ていた。
六
鮑黒玉のお手柄もしくは悪戯の結果、秋の祭礼で碧玉は笛を奏でることになった。海一族の者は誰でも一つ楽器をこなせるが、その中でも碧玉の笛は群を抜いて見事だった。最近は滅多に聴けないこともあり、聴きたがる族人も多い。久しぶりの演奏なので、聴衆の期待は高まっているだろう。祭礼のことを考えると碧玉は些か憂鬱だった。
もともと碧玉が笛を選んだのは、持ち運びが楽で、手入れが楽だからである。どこへ行っても練習出来るという利点もあった。幼い頃は大好きで毎日のように笛を吹いていたことから、叔父の陳叔牙には「笛子豎子(笛吹童子、笛吹小僧くらいの意味)」などとありがたくない綽名(あだな)を頂戴したこともある。夢中になってやっていたからこそ上達したとも言えるが、武挙(武官登用試験)を受けることに決めてから、笛を取ることは極端に減った。以前は良く白玉の琵琶と合奏したものである。うっかり我を忘れて、深夜まで及んだこともあった。月琴で付き合ってくれていた翠玉が舟を漕ぎ始めなかったら、朝まで続けていたかも知れない。「そういう時は声を掛けろよ」と白玉に言うと、隣の紫玉と顔を見合わせ、二人は少し困ったように微笑んだ。もしかしたら何度も声を掛けてくれていたのに自分が気付かなかっただけかも知れない、と思ったのは少し後になってからである。
練習しようとして愛用の笛を久々に取り出し、唇に当てようとした瞬間、違和感を憶えた。
翠玉は肩幅がないせいか華奢に見られがちで、あまり強そうには見られないが、一族では碧玉と一、二を争う刀の遣い手であり、杖術では並ぶ者がいない達人である。そしてまた天祥の次に読書家と言えた。所謂「文弱の貴公子」ではないが、色白で繊細な顔立ちをしており、ほっそりした指は刀剣など知らずに過ごしてきたかのようであった。白玉のすぐ下の弟であるが、一つ違いということもあり、幼い頃は服を取り替えると見分けがつかない程だった。その翠玉の部屋を碧玉が訪れたのは夕食の後である。
「相変わらず片付いてるな。俺の部屋とはえらい違いだ」
「掃除をすれば綺麗になります。大体大哥は俺と違って部屋に物を置かないんですから、ハタキを掛けてちょっと掃き掃除して、あと机の上でも軽く拭けばそれで済むでしょうに」
「それが面倒でな。お前を嫁に貰えば良いんだろうが」
そう言って勝手に寝台の上に寝転ぶ。呆れた顔で翠玉が応える。
「男の嫁になる奇特な趣味は持ち合わせていませんよ。大姐か紅玉にでも申し込んだら如何ですか」
「紅玉には振られた。青玉の嫁になるんだとさ」
「あの子はいつも青玉が一番ですからね。大姐を凌ぐ美女になるだろうに、勿体無い」
「…で、どうだ。見てくれたか?」
寝台から身を起こしてニヤリと笑う碧玉の顔を、翠玉は久しぶりに見たような気がした。
「ええ、バッチリですよ。夏信が言い置いてくれていった通りでした」
そういって翠玉もニヤリと笑い返した。
「話は変わるが…祭礼の剣舞に選ばれたそうだな?」
「……どこから聞き込んだんですか?」
何やら不穏な空気を感じ取って碧玉は意外な感に打たれた。
「黒玉だが。何かあったのか?」
小声でその場に居ない黒玉を罵るような呟きを発してから、ゆっくりと肯く。
「不本意ですが。お陰でこちらは棍を取らざるを得なくなりました」
棍とは、全く加工のない、堅い木を丸く削っただけのもので、長さは翠玉の身長の1.4倍程である。
「相手は誰だ? お前が棍を遣うとなると、女か?」
碧玉がからかうような口調で言うと、何やら恨めしそうな顔を向ける。
「その当の黒玉と、水玉です」
答えを聞いた碧玉は、吹き出した。
剣舞は、通常は刀剣をもっての舞のことであるが、秋の祭礼のそれは模範演技で、殆ど試合同然の性格を持っているものである。今回は演技者に怪我がないよう配慮され、打兵器と長兵器による実演となった。
黒玉は女だてらに剣を良く遣うし、水玉も人形のような外見を裏切る程の遣い手である。何より水玉は身軽で器用なので、剣や刀に固執せずいろんな武器を幅広く扱うのが上手かった。
それでも敢えて翠玉が棍を選んだのは、間違っても二人に怪我をさせぬようにとの配慮である。打撲では生命に関わる程の怪我になることは稀である。青痣程度なら数週間もあれば消えるだろうという読みもあった。
「成る程。黒玉はともかく、水玉に怪我は勿体無いな」
祭礼の笛を押し付けられたのを少し根に持っているようである。
「で、二人は何を選んだんだ?」
「黒玉が方天戟、水玉は錘を」
黒玉が武器とする方天戟は、翠玉の身長の1.2倍程の長さの棒の先に、槍のような尖った刃を付け、更にその横に三日月形の月牙と呼ばれる刃を左右対称に付けたものである。今回は万一にも怪我をせぬよう、刃が砥がれていないものを使用することになっている。
水玉が選んだ錘は翠玉の身長とほぼ同じ長さの棒に、錘(おもり)と呼ばれる球状の打撃部を付けて打撃力を強化した複合棍棒で、錘そのものは大人の頭部より幾分小さい。梃子の原理を利用して、単純な棒で打つよりも多大なダメージを敵に与えることを狙った武器だが、近年は主に儀仗用の武器として使われることが多かった。
「…この上もなく、二人に似合った選択だな」
碧玉は、軽く笑った。その碧玉が三年程前の祭礼で紫玉を相手に剣舞をつとめていたことを翠玉が思い出したのは、碧玉が自室に戻ってからだった。
入浴を終えて再び部屋に戻った碧玉は、上半身には何もまとわぬまま、寝台に横になった。少し汗が滲んだ均整のとれた体には、バランス良く筋肉がついているが、まだ少年らしい張り艶がある。虎体狼腰という言葉が似合いそうな体格だった。顔立ちは整っている方と言えるが、翠玉の繊細さと比較すれば幾分粗削りと言えるだろう。とろんとした目は連日の騒ぎで疲れていたものかも知れない。寝台の隣に置いた灯を消すと、程なく規則的な寝息が部屋に木霊した。
息を殺して潜む影があった。碧玉の寝息が暫時一定になったのを見澄まして、寝台の下から影が静かに這い出した。それと同時に、糸を張るような、ぴんという微かな音がした。
影は、碧玉の口の辺りに左手を近づけ、寝息を確認すると、その心臓を目掛けて短剣を振りかざした。