銀宵――海虹外伝――
八
適度な湿り気を帯びた風が、やわらかく頬を撫でた。日差しを遮る衣は必要だが、この湿度に厚手の衣では、そろそろ中が蒸れるようになってきている。衣を替えるには丁度良いかも知れない。荷物の中から、つばの広い帽子を取り出す。皮革製で、顎にひっかけられるように紐がついている。長く編まれた紐にそっと添えられた房には、碧色の石が付いている。それは、今は傍にいない銀の髪をした花嫁が、婚姻を決める前に作ってくれたものだった。その花嫁の消息を掴んだと義兄となる予定の人物から連絡が来たのは、つい昨日のことである。碧色の石をそっと指でつまみ、視線を落とす。指にかかる房の色は、赤銅色。それを付ける人物の髪の色に合わせたものである。複雑な織をした房は、精緻で端麗なつくりをしていて、作り手の作業の濃やかさが目に浮かぶようだった。行列は、あと二日もすれば伽都豫へ到着するだろう。嫡子の婚姻ではないので伽王との謁見は予定されていないが、焦りは募るばかりであった。しかし花嫁の身代わりとなっている虞炎玉は、普段の傍若無人な行動が信じられぬ程にそつなく万事をこなしている。これほど完璧に「お淑やかな花嫁」を演じきると思っていなかった彼は、正直驚いてもいた。
「孔昭。次の宿で衣を替えよう」
気遣いの言葉をかけるのは、寧ろ周りの目を気にしてのことであるが、今回ばかりは予告をせねばならない。今までの衣は姿を隠すのに最適だったので、鬘を被らずとも髪があらわになることはなかったが、薄手の衣は生地の織も粗めに造ってあるので、鬘を被らずに済ませるわけにはいかない。鬘自体の重さは大したことはないが、折角薄手の衣に替えても花嫁役はその恩恵に預かることは出来ないのだ。
「孔昭、手を」
駱駝から降りる花嫁に手を差し伸べる。少し骨ばっているような気がするが、流石に花嫁役に疲れてきているのだろう。洛家の次男坊はそう思って労わるように肩に手をかけた。その瞬間、びくり。と花嫁が身を竦ませた。
鷹らしき影が上空を舞っている。二回、三回と頭上で旋回すると、それで気が済んだのか、そのまま飛び去って行った。地上からそれを眺めているのは、焦茶色の真っ直ぐな髪と紫色の活動的な瞳を持つ、元気の良すぎる人物である。いや、良すぎる程度で済めばいいかも知れない。その名を、虞炎玉という。親族一同をして「これほど似つかわしい名を誰が考えた」と言わしめる程の名だ。燃え盛る炎の玉。一歩間違えばちょっと危険なものになりかねないが、どちらかというとそちらの方が本来は良かったかも知れない。彼女は遠く飛びさる鷹を見つめながら、地上を歩いていた。供と呼べるかどうかは不明だが、近くに三つの影がある。一つは虞炎玉より頭一つ分程は大きいだろう。風維王という灰色の髪に紺碧の瞳の人物である。二つめは大型の獣で、銀色の体毛を身に纏っている。体は全体的に丸みを帯びて、しなやかであった。足音をさせない動きは、猫のそれに近い。三つめは小型の獣で、体毛は金、ちょこまかとした動きは小型犬のそれだった。
「炎玉…、日鬼が……」
遅れている、と言い掛けて、思わず殺気のような気配に目を上げる。氷の結晶よりも冷え冷えとした視線が絡みつくように彼を見つめていた。
「日鬼、お前の為にこれ以上遅らせる訳にはいかぬ。その細かい足を必死に動かすか、お前の飼主の肩に乗るかしろ」
焦茶色の髪の持主の指示が飛ぶと、日鬼と呼ばれた獣は素直に飼主の傍へ寄り、そのまま跳躍して左肩に飛び乗り、その反応を待つように炎玉の方をじっと見つめた。
「賢明だ」
肯くと、そのまま肩の上に腹ばいになる。そうすることによって、維王の負担も日鬼自身の負担も最小限にすることが出来た。
「……」
肩に金色の獣を載せた維王は、首だけ毛衣を纏っているようだった。丁度日鬼の尻尾がふさふさと首の反対側に回っているせいもあるだろう。
「丁度良い襟巻きが出来て良かったではないか。さあ急ぐぞ」
この炎天下に襟巻きなど欲しくはない!と言い掛けて、維王はがっくりとへたれこんだ。だが、容赦なく炎玉は先へと進む。その傍に控えているのは月鬼である。
「……」
言いたいことはいろいろあったが、とりあえず言えることはなさそうだった。灰色の髪を軽く振ると、肩の日鬼が体勢を崩さぬようにしがみついているのが判った。それにそっと微笑みかけて、維王は再び歩き出した。
長い廊下の天井は、かなり高かった。大理石で出来た床を音もなく歩けるのは、その上に敷かれた、ふかふかとした毛足の長い絨緞のせいである。足首まで埋まりそうなほどのやわらかさは、宮殿に住まう者には当たり前のものであったが、洛家の次男坊は少々不得手であった。洛家でも絨緞は使うが、どちらかというと薄手のものを好んで使う傾向がある。細い繊維の糸を丁寧に撚って作られるそれに、幼い頃から馴染んできた彼は、うっかりするとこの毛足の長い絨緞に足を取られそうだった。しかも今回は花嫁を連れている。その手をひいて歩くのに、自身が転ぶ訳にはいかない。その花嫁は、危うげなく進んでいた。花嫁の故郷岳邑では絨緞を使う習慣はない筈だが、あまり抵抗はないようである。それにしても。と視線を巡らす。伽都豫の中心にある王宮は、海一族の初代邑主が築いたものだという伝承があった。その海家の人々は、現在、伽国最南方の海邑に暮らしている。この宮殿は慣れれば仕組みは難しくはないが、初めて来たものにとってそこは巨大な迷路にも似た場所であった。部屋の数が膨大であるばかりでなく、どこもかしこも良く似た構造になっているのだ。それは、海一族そのものの構造とも良く似ていた。主姓である海姓は格こそは上だが、基本的に他姓と同等であるという立場を取っている。他の六姓でそのように他姓を扱うところはなかった。どこでも、歴然とした区別をしている。伽国七姓の中でも最も古い貴族である海姓は、それだけ異質であるともいえた。
幾つ目かの角を曲り、辿りついた部屋の扉を叩く。先導してきた人物は隣に控え、花婿は花嫁の手を引いたままその部屋の中へと吸い込まれて行った。その中もまた、毛足の長い絨緞が敷かれている。
「孔昭、気をつけて」
そう声をかけられた花嫁は、静かに肯いて優雅に足を進めた。その足取りはしっかりしており、寧ろ声を掛けた側の方こそ危なっかしい様子である。
「婚姻許可申請をしたい。私は洛瓊琚だ」
そう言って、既に用意されていた書類を皮革製の袋ごと窓口へと提出する。慌てた様子はないが、それでも受付の係員は後ろを振り返って、何かを待っている様子だった。
「ご苦労様です。七姓同士の婚姻でしたね」
柔和そうな顔をした人物が、これまた足音もなく奥から出てきて、提出した書類を受け取った。柔和そうなのは顔だけで、中身はというと氷を圧縮したようなという形容をされることが多い人物である。花婿自身には馴染みが深いが、だからと言って氷が冷水になることはない。不幸中の幸いと言えるのは、それが誰に対しても同じということだろう。自身にばかり冷たいという訳ではない、誰に対してもそうなのだ。と自分を慰めることが出来そうだった。それが精神の回復に役立つかどうかは別として。
書類の内容を確認していた切れ長の目が鋭く光り、終りまで見たところでふとそれが和らいだ。
「結構です。ところで」
少し声を落として、囁くような呟きを漏らす。
「『白の君』が『銀の花嫁』をご覧になりたいそうですよ」
それは、少なくとも今の二人にとって、不吉極まりない言葉だった。
「白の君」。それは、伽国王その人を示す隠語である。唯一至高の座につく伽王を呼ぶ称号は幾つかあるが、庶民も含めて一番良く使われているのは、この「白の君」或いは「白の王」だった。それは、文字通りの意味を持っている。
伽王家には三つの分家がある。成立した年代順に並べると、宣、陶、薄だ。八方の藩屏として比較的早くに作られた家である宣家と陶家は、七族としての数に含まれているが、薄家は本家である伽家の家宰の役割を担っており、貴族としての待遇はない。血としては宣・陶両家より王に近いのだが、王の庶子がその族祖であることがその大きな理由であると噂されていた。彼らは同じ初代王の血を持つ一族である筈だが、その遺伝子は既に分かたれているのかも知れなかった。事実、宣・陶・薄家の者は白銀の頭髪に橙色の瞳をしているが、伽王及びその子は白髪赤瞳であった。雪のように白い髪、血のように赤い瞳。それこそが王家の者の証であった。最も白い髪と最も赤い瞳を尊ぶ伽家では、次代の王をその資質ではなく、色素の色で決めるという話さえあったが、その真偽は今も謎に包まれている。
「そんな。謁見は不要な筈…!」
思わず現在の状況を忘れて食ってかかる洛家の次男坊に、苦笑しつつ語調を変えて応える。
「だー、かー、ら。『君から申し込みする』んじゃない。お馬鹿さんだねぇ」
七姓嫡子の婚姻の際には、伽王に報告する義務がある。次代当主として定められたのは異母兄の洛瓊華であった。それが故に岳孔昭が拉致されても、ある意味安心して伽都に許可申請に来れたのである。許可申請の段階で連れている花嫁が本人ではないということについては、誤魔化しの余地もあるだろうが、謁見で別人を連れていたとなると、偽装結婚、最悪は七族同士の共謀による反逆罪を疑われかねない。そうなれば、洛・岳両家は討伐の対象となるのだ。しかも海家と同じく武門である岳家はともかく、洛家は文門である。海家や岳家の十分の一の軍備も整えることは不可能だろう。まさか「自主的な謁見希望」を突きつけられるとは思ってもみなかった花婿には、まさに青天の霹靂であった。
「白の君が直々に許可証を下さるというありがたーい名誉が控えているんだからねぇ。すっぽかしたりしたら、大変なことになっちゃうよー?」
にやり。と微笑みつつ語り掛けてくる口調こそ軽快だが、その内容はかなり辛辣でさえある。頭を抱えた花婿の肩に、花嫁がそっと手を掛けた。振り向くと、頭布と前髪で顔は見えないながらも、そっと身を寄せて、肯いている。
「……孔昭」
別の人物の名を呟かずに済んだのは、花嫁の楚々とした動きのせいかも知れない。そのすぐ横で軽快な口笛が高らかに鳴り響いた。
「見せつけてくれるねえ、流石は新婚さん。いや、式はこれからだったっけ。そういえば花嫁の家から婚姻を申し出たそうだったね」
そう言った瞳が書類を確認した時と同じように、きらり。と光った。まるで必ずその粗を探してみせるよ。といわんばかりに。