銀宵――海虹外伝――



 恋人を前に恥らう乙女のように、紅に染まった空が、一番星の登場とともに仄かな翳りを示しはじめる。それはやがて薄い紫色を湛え、いつしか濃紺に染まっていく。そう気付く前に日は空から落ちて、見えなくなっていた。あたりには夕陽の残照が、熾火のように微かに残るばかりで、すっかりと夜に染まりつつある。暫くは余韻をその身に止めたままの茜色だった雲さえも、夜の支配から自由では居られない。深い闇の色に囚われて、最早逃げられずにその身を夜の眷属の色へと染め上げる。そして、一面夜の色に染まった空に、一つまたひとつと、銀色の砂を撒いたような星が見えはじめている。夕空は特に綺羅綺羅しい星が二つ三つ見えているばかりであったが、時間の推移とともに夜は深まりゆき、見える星はその数を増していた。幾千幾万幾億もの星が、さざめくような光を傾けている。穏やかな夜の訪れであるが、今宵は少々落ち着かぬ風情を残していた。
 夜に入って、いよいよ、婚儀が始まろうとしていた。花婿となる青年はここで岳一族の娘を貰い受け、伽都豫で王の許可印の入った書類を受けねばならない。それがなければ、正式な婚儀としては認可されないのである。しかる後に、花嫁を洛邑に連れ帰る。そして帰邑すれば、そこではまた花嫁が花婿の一族として迎えられる儀式が執り行われるが、花嫁の両親は参加出来ぬ。つまり花嫁はここで生家との縁を絶ち、その上で婚家へ迎え入れられるのだ。壮麗なる婚礼に相応しい、美々しい衣装を重ねた体躯が、今は少々暇を持て余しているようで、今宵花婿となる青年は落ち着かない様子を見せている。
「花婿がそんなでどうする」
 小声で掛けられた言葉にいつもの皮肉を返す余裕さえないらしい。完全な傍観者である虞炎玉は、面白いものだと、まじまじと花婿を見つめた。
 花婿の赤銅色の髪は白い頭布に隠されて、殆ど見えない。碧瞳はいつもなら深く落ち着いた色合いを示している筈だが、今宵に限っては落ち着かない色を浮かべていた。洛瓊琚は、洛家の当主の子である。第二子であった。七族では通常、正妻の他に何人かの側女を置く。洛家も然り。いや、そういう意味では炎玉が属す海の一族は、伽国の例外中の例外というべきかも知れぬ。
 今宵の花婿自身は正妻の子であったが、第一子である兄は、父である現当主の寵愛する側女の一人が生んだ子であった。
「そんなに落ち着かないでいると、花嫁が困って出て来られないぞ」
 からかうような炎玉の言葉にも、返事をする余裕はない。このときとばかりに攻撃を仕掛けたくなるのは人の常であるが、流石に儀式の場であると思い直して、炎玉はそれ以上つつくのをやめた。花婿の気がそぞろであったのは状況を考えれば止むを得まいが、花嫁である岳孔昭の登場が遅いのは事実である。本来ならもうとっくに祭壇の前に居て、花婿との契りの儀式を交わしていてもおかしくはなかった。確かに花嫁は支度が大変であるが、花嫁がこの婚礼そのものを忌むのであるならともかく、花婿とは曲りなりにも相愛の間柄である。いつまでも待たせるようなことはない筈だった。しかし、だからといって花婿が花嫁の天幕に押し入る訳にもいかぬ。それに、炎玉には一つ気になることがあった。
「岳の小父上。部外者が失礼しても宜しいか?」
 炎玉がそう尋ねたのは、岳家の当主であり花嫁の父岳于飛である。部外者の炎玉がわざわざ名乗り出たのには、少々訳がある。七族同士の婚儀故に、というべきかも知れない。大事にする訳にはいかず、儀式の参列者は最小限に止めねばならぬほか、警備も厳重にしなければならなかった。母がいない孔昭の介添さえ侍女一人である。炎玉は親しい友としてよりも、花嫁の道中を警護する者としてこの儀式に参列することを許されていた。
「うむ。すまぬ」
 当主の言葉を受けた炎玉は、さっと身を翻して、きびきびとした動作で天幕へと近づく。小ぶりの天幕は、この七族同士を結ぶ婚礼の為に特別に設えられたものである。上物の布を使って作られた、鮮やかな赤と縁を彩る翠との対比は絶妙で、要所に施された黄金色の刺繍も繊細優美な佳品と言えた。その天幕の入口の布を、炎玉は「入るぞ」という声とともにそっとめくる。しかし人の気配は不思議なほどにない。静まり返った天幕を訝しげに覗きこむと、そこには孔昭の侍女が倒れていた。油断なく、そして無駄のない動きで素早く視線を動かす。
「…小父上!」
 炎玉の鋭く短い叫び声に、変事あるを予期して、花嫁の父は天幕へと急いだ。倒れていた侍女を炎玉が抱きあげているが、肝心の主役、花嫁岳孔昭の姿がない。
「おい、起きろ。聞こえるか」
 幸い、侍女は気絶していただけで、怪我はなかった。それにはほっとしたものの、花嫁の姿が見当たらないことには、心の落ち着きどころがない。
「孔昭はどこだ?」
 腕に抱えた侍女を揺すりつつ、はっとした顔になる。
「……天幕の入口を閉じて! 小父上、薬品が撒かれた形跡がある。念の為布で鼻と口を塞いで、余の者を近づけるな」
 てきぱきとした指示を終えて、再び侍女に語りかける。何度目かの炎玉の問いに、ようやく意識を取り戻した侍女が答えようとしたが、声が出ない。己の声が出ぬことに愕然とした様子を見せつつも、侍女は自身の役目を弁えていた。炎玉の手を取り、それに文字を書く。
「孔昭は? ……攫われた、だと? 誰に?」
 その場の空気が一瞬でざわめいた。岳家本拠地のしかも一番警備が厳しいこの場所から、易々と花嫁を拉致したというのである。それは、岳家に正面切って挑戦状を叩き付けたに等しい。そして、その婚家である洛家にも。
「相手の顔は…見られなかったというのだな? 姿は? 背格好程度は判るか? 髪の色は?」
 矢継ぎ早の炎玉の質問ではあるが、侍女は首を縦に振り横に振り、時には文字を指で示すなどして、判る範囲で答えた。それによると、覆面した者が孔昭を捉えて気絶させ、更に侍女を気絶させて去ったらしい。毛髪を隠していて、髪の色さえも判らなかったのは是非もない。だが、侍女も流石に岳家に仕える者である。炎玉の袖を引き、もう片方の手を伸ばした。
「何だ?」
 侍女がおずおずと差し出したのは、金鈴であった。小指の爪ほどの小さな鈴を、覆面した犯人の腰からようやく奪い取ったのである。それは今、花嫁孔昭に繋がる筈の唯一無二の手がかりであった。
「でかした。この鈴に心当たりは?」
 後半の言葉は花嫁の父でありこの岳邑を統括する岳家当主に向けられたものである。血の気を失った顔がそれを覗き込み、力なくそっと横に振られた。
「いや…、ない」
 軽い音を立てたその鈴を見て顔色を変えたのは、今頃花嫁を娶っていた筈だった青年だった。蒼白な顔に汗を浮かべて、今宵義理の父となるはずだった岳家当主に、そっと手を差し出す。その掌の上には、金色の小さなものが載せられていた。
「これは……、同じもの……?」
「洛家の一族の者なら誰でも持つ、印の鈴です」
「なんだと?」

 主役たるべき花嫁が連れ去られたのは紛れもない事実であった。探索隊を差し向けるべきであるが、同時に婚礼行列もなければならない。明朝行列が出発することは周囲及び道中の地域には周知徹底済みであり、それがないとなれば岳家のみならず洛家をも、事と次第によっては七族を巻き込んだ大騒動になるのは自明の理である。しかも、洛家に花嫁拉致の容疑が掛かっており、同時に洛家は花婿の家でもあるのだ。
「だからと言って何故私が孔昭の身代わりに…!」
 虞炎玉は銀髪のかつらを着用させられ、花嫁衣装を着せられて不本意そうに呟いた。背格好が近いのが一番の理由だが、邑に本来居ない人間であるので、岳邑を監視する者が見ていたとしても、気付かれぬ可能性が高いというのが本当の理由である。勿論数日前から岳邑に繋がる道を張られて居た場合、炎玉の存在が筒抜けになっている可能性もあるのだが。それでも岳家の他の娘が代わりになるよりは、ばれる確率は低い。それが理解出来ぬ炎玉ではない。
「岳家と洛家の交誼の為にも、私が出張る訳にはいかぬ。行列が洛邑に到着するまでには何としても孔昭を見つけ出すから」
 花嫁の拉致で気疲れし憔悴しきっている岳于飛に、涙声で頼まれれば流石に無下にも出来ぬ。だが、そのまま洛邑に入る訳にもいかぬ。
「小父上。此度はあなたの目の下に飼われている小熊に免じて引き受けるが、洛邑の手前で私は行列を去る。それまでになんとしても孔昭を行列に戻されよ」
「すまぬ」
 洛邑に到着後、炎玉の焦茶色の髪が洛家の者に知られれば、岳家が謀ったということで両家が戦闘状態になるのは回避出来ぬ。更に、炎玉自身が海家に連なる五姓の者と知られれば、それに加えて海家もまた巻き込まれるかも知れず、その渦中にあって炎玉自身も己が身を守ることは厳しくなるだろう。それを考慮した上での発言である。
「すまぬ」
「それと、何があろうとあの馬鹿だけには伝えるな。やりにくくてかなわん」
「孔嘉のことか? それなら……」
 言い終えぬうちに、旅装束を調えた岳孔嘉が気軽な様子で片手を上げ、近づいてきた。
「よっ、炎玉! 俺の嫁に…」
 がん。
 毎度お馴染みとなりつつあるその台詞が終いまで終わらぬうちに、炎玉に「あの馬鹿」呼ばわりされた青年は、超絶技巧の刀背打ちを食らい、続きを口にする機会も与えられぬまま、音もなくその場にくずおれた。僅かに炎玉の銀の鬘が、風に揺れたかと見えたが、その実、隼のような動きは孔嘉の鳩尾に疾風の如き一撃を与えている。
「護衛にと思ったのだが」
 情けなさそうに岳家当主は次期当主(予定)を見、それから炎玉に視線を戻した。
「邪魔なだけだ。それに」
 ちら、と視線を花婿に送る。
「『花嫁』の護衛なら、花婿殿が居ろう。実の兄が金魚のフンか菓子のおまけのように、いつまでもついてくる花嫁などおるまい」
 花嫁の父はその状況判断の見事さと度胸の座り方に感銘を受けつつ、次期当主の嫁に、という言葉をすんでのところで呑み込み、「次期当主」にちらり。と視線を向けて、深く溜息をついた。
「案ずるな、小父上」
 花嫁用の衣装を身に纏い、婚礼用の輿に手を掛けつつ、炎玉は微笑んだ。
「孔昭は無事だ。それに必ず連れ戻す」
 岳一族にとってこの上なく長かったその夜も、まもなく朝を迎えようとしていた。炎玉の後ろからまさに旭日の勢いで日が昇ろうとしている。背中に太陽を背負った炎玉は、小柄ながらも頼り甲斐を感じさせた。
「すまぬ、すまぬ……!」
「謝るな、小父上。あなたが悪い訳ではない」
 攫われた娘の安否が気にならぬはずはない。それは花嫁の親友である炎玉も同じ筈である。だが、焦茶色の髪の持主は、それについては「大丈夫」と言ったきり、多くを語ろうとはしなかった。
「ただ、一刻も早く…」
「うむ」
 炎玉の小さな手を痛い程に堅く握って、岳家の当主は涙を堪えた。
「出立だ!」
 洛家の次男坊が右手を高く上げ、手を振る。列の最後尾に居た法螺貝の吹き手が、高々とそれを持ち上げ、深く力強い音色を奏でる。
「窮屈だろうが、暫く猫を被っていてくれ」
「言われるまでもない」
 ふん、と軽く鼻を鳴らすのも、これが最後だろう。道中では一切気を抜くことは許されない。そして、ふと思い出したように振り返った。
「孔昭は無事だ。小父上、賊は恐らく流言飛語を飛ばしてくるだろうが、必ず行方を突き止めてくれ」
 偽の情報百の中に真の情報一つがあればいい方だろう。賊の側から見れば、真偽取り混ぜあらゆる情報をばら撒くのが、この場合撹乱を意図する者として有効となりそうであった。望んでのことではないとはいえ、孔昭の扮装をしている今、流石にいつものような行動をする訳にはいかぬ。炎玉は隣に居た侍女に、輿の簾をそっと持ち上げさせ、優美な仕草で乗り込んだ。如何にも良家の子女らしく、可憐に、かつ淑やかに。

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