良宵
十六
「黒玉」
声を掛けてきたのは、虞縞玉だった。
「大哥。……そのお衣装は?」
一目で旅装と判る衣装を身にまとっている。
「遊学する。少し頭を冷やしたい」
「……そんな!」
突然のことに驚きつつも、その選択が鮑黒玉には羨ましい。海白玉の思い出がここかしこに残る海邑を離れ、新しい世界を見ることは、確かに縞玉には相応しいことであるように思われた。縞玉は、すっきりと晴れやかな笑顔で黒玉を温かく見つめた。
「医を学ぶ。そのあとはまだ決めてはいないが」
「大哥…」
「いつまでも嘆いていては、白玉大姐に笑われるからな。私は選ばれなかった男だが、かの巫女の伴侶として相応しい男になりたいとずっと思っていた。ここで嘆いて留まっているより私に出来ることを探しに行きたいと思う」
黒玉の褐色の滑らかな頬に、涙が一筋落ちた。
「その涙を笑顔にかえて、私を見送ってくれないか」
そう言って彼は黒玉の頬に軽く口付けた。
「あーっ!!」
素っ頓狂な叫び声と共に小さい物体が飛んで来た。と思ったら、海黄玉だった。二人の男女が唖然としていると、色をなして縞玉に詰め寄る。
「縞玉大哥! 黒玉大姐は俺のだから駄目っ!!」
そういって黒玉の足をきつく両手で抱きしめた。
「……小さな騎士殿は何処から見てるか判らないな」
「黄玉…ちょっと待って、いつ私が…えっ」
青年は苦笑しつつ、にやりと黄玉を見て今度は黒玉の顎に手をかけ、唇に口付ける振りをした。縞玉の動きに驚いて、赤髪の娘は硬直しかける。黄玉は片方の眉を勢いよく釣り上げ、憤怒の形相で縞玉の向う脛を思い切り蹴り飛ばし、黒玉の手を強く引いた。五歳の子供とも思えぬ敏捷な動きについていけず、まともに脛に一撃を浴びた縞玉が悲鳴をあげる。
「痛ーっ!」
「えっ」
二人が叫んだのはほぼ同時だった。赤い髪の娘が気づくと、縞玉が膝を抱えてのた打ち回っていた。そして。自分は床に座り込んでおり、黄玉が唇を塞いでいた。この後、暫くのあいだ黄玉が他姓の幼児と一緒に遊べなくなったのはいうまでもない。
十七
宴の翌朝、縞玉の惰眠の扉を蹴破ったのは、海青玉である。とんとんとん、と扉を叩く音に続いて、爽やかな大音声が、酒の抜けきらぬ縞玉の頭をものの見事に直撃した。
「縞玉大哥、おはようございます。朝食にしませんか」
扉を開けて顔を出すと、足の先まできっちりと身支度を済ませた青玉の爽やか過ぎる笑顔が、まるで朝日のように目に染みた。普段飲み慣れぬ量を飲んだ身には、少々刺激の強い光景である。
「…出来れば美人に耳元で囁いて起こして貰いたいな」
それは贅沢というものである。とは答えなかった。
「紅玉で良ければ一緒に来ております。ただ、男性の居室内にお邪魔するのはと申しましたので、私が保護者としてご一緒しました」
見ると、青玉の後ろに、こちらもまたきっちりと身支度を済ませた海紅玉が静かに佇んでいた。ほっそりとした優美な姿は朝日の中でもしっとりとした色合いを帯びている。父兄参観。と心の中でしっかりと突っ込みを入れる。
「まもなく朝食です。替えの衣類はこちらに」
「……前に使ってた衣類は使えない筈だが」
成長期は終わっていたとはいえ、七年前とは体格が違う。かつて着用していた衣類は最早袖を通すことは出来ても、服の前を合わせることは出来まい。そして袖も通すことは出来たとしても長さが足りないだろう。裾も微妙に短い筈である。
「大哥が宜しければ、これを」
鮮やかな碧を焦茶で縁取った衣装は、要所に邪魔でない程度のさりげない装飾が施されていた。縞玉の目と髪の色に合わせたものだろう。縫製も丁寧で着心地も良さそうである。昨日の今日では忙しなかったろうに、着替えを用意してくれたということに驚きの念を禁じえない。
「これは、もしや紅玉が……?」
「お体に合うと宜しいのですが。急いで作りましたので……、解れや綻びがありましたらお知らせ下さい」
「……すっかり淑女だな。ありがとう、喜んで着させて貰うよ」
果たして、袖を通すとそれは誂えたようにぴたりと縞玉に合った。
十八
朝食が終ると、武具の検分だった。模範試合には適当な得物が必要である。最近武器の鍛錬を怠っていたので、元々使えていた武器も少々怪しいかも知れない。そういうと、海碧玉が案内を買ってでた。勿論武器庫の場所は判るが、武挙で首席になった碧玉の見立てなら、大丈夫に思えた。
「最後に稽古したのは?」
「五年程前かな」
「叔母上の元では稽古は?」
「二十歳前まで」
少々情けなくはあるが、人を傷つけるものなど、必要最低限に使えればいいというのが持論であった。勿論、十分に使えれば上手く活用して人を救うことも出来るだろう。だが、それよりも他者を傷つけるもの自体が、縞玉はあまり好きにはなれなかった。
「叔母上は?」
碧玉は鞭、錘、狼牙棒を並べた。ついで直刀、呉鉤、朴刀、二郎刀、大刀、和刀などが並べられる。
「我関せず。好きなようにしなさい、だった」
叔母らしい。と納得したように碧玉は笑った。
「和刀か……」
和刀は細くしなやかな曲線を描いているが、鍛えた鋼の強靭さは鉄塊をも一撃で両断出来るほどであり、遣い手が扱えば山をも斬ると言われるものである。刃の厚みは通常の刀剣の半分程度で幅は縞玉の小指の長さほどもない。華奢とさえ言える繊細な外形。刃紋は雲のようで、見つめていると魅入られてしまいそうな妖しい輝きを持っていた。
「白玉大姐……いや、……」
一瞬躊躇ったように呟き。その呟きを受けて、碧玉は柔らかい笑顔を浮かべた。
「そう、紅玉に。まさにかの巫女は我が一族の宝剣」
ただ飾って見るだけのものではなく、鋭利にして強靭な武器そのもの。そして、それを御せるものは僅かに一名。
「これは……?」
細長い、黒漆の箱を見つけた縞玉は、思わずそれを手に取った。黄と黒との紐は複雑な結び方をしていて、どこから解けば良いのか皆目判らない。装飾としてもかなりのものである。結びだけでも縞玉の掌一枚分の大きさがあった。そしてその内側に、これもまた精緻な装飾を施した細長いものが添えられている。それには一箇所、隙間が見えた。見ようによっては鍵穴にも似ている。漆の箱ごと持ち上げてみると、重いというほどではなかったが、何かいわくありげな品に見えた。
「何故こんなものが武器庫に……?」
そういう疑問は生じたが、正直言ってそれが何か判らない以上、優先すべきは他にあった。
「それより模範試合の武器を見繕ってくれないか」
碧玉はまた武器を並べ始める。その中に、目を引く武器が一つあった。
「これは……まさか」
幾つかの節を持つそれは、重さはさほどではないものの、打撃力は相当期待できそうな武器である。しかしそれが何故海邑にあるのか、外遊が長かった青年には理解出来なかった。
「そのまさか、多節棍だ。幾つかの棒を鉄の鎖で繋げ、棍棒の打撃力を強化している。攻撃が変化に富み、相手にはかわし難いものだ。主として三本の棍棒を繋いだ三節棍が遣われる。……しかし、これは習熟に相当な時間が要る」
「何故、これが海邑に?」
驚きを隠せぬ様子の縞玉に、少々驚いたように碧玉は応えた。
「何故って……。多節棍の遣い手として有名な人物は憶えているよな?」
その質問に、焦茶色の髪をした青年は思い当たった。
縞玉は碧玉と共に海天祥の部屋に居た。多節棍、それは習熟が難しかった為に習う者も居なくなり、現在は殆ど途絶えた武器であり、流派の名前でもある。その創始者が残した兵法書は他にはない貴重なもの。それが、ここ天祥の書斎にあるのだ。天祥が閲覧を許可するかどうかはものがものだけに自信が持てなかったが、習いたいという者を拒む長老ではないと、碧玉と縞玉の二人は断りを入れずに入室した。天祥は不在であった。
「確かあの兵法書は巻物だったから……」
天祥専用の特製梯子を使い、書物を漁る。長老に気づかれぬようきちんと元通りにしておかねばならないので、些か骨が折れた。
「これだ!」
その瞬間、予告もなく扉が開いた。
「誰じゃ! こそこそと何をしておる!」
年齢を感じさせぬ腹腔からの大音声が響き、碧玉は体勢を崩して梯子から落ちた。
「あ、あ、あっ。爺様」
努力も虚しく、碧玉は大量の書籍とともに床に落ちた。それを意図せず望まずして抱き留めたのは、縞玉である。
「碧玉大哥! ……!」
どっしーん。ばさばさばさ、かんかんかんっ。
碧玉と縞玉はあっという間に書物の山に埋もれて、顔と両手だけがようやく山から覗いていた。落下音と振動と埃がおさまるのには、暫く時間が掛かった。舞い飛ぶ埃で二人は激しく咳き込んでいる。
「……美人の落下なら喜んで歓迎するんだが」
縞玉はそう呟くと、再び咳をした。
「すまん。助かった」
隣で碧玉がこちらも苦しげに咳をしていた。天祥は呆れたように書物に埋もれる二人を見遣った。
「なんじゃ碧玉、先に訊きにくれば良いものを。お陰で貴重な書物が全部台無しになるところだったわい」
事情を説明すると、呆れたような顔で碧玉を見ていたが、その眼差しには何か懐かしいものを見ているような色合いがあった。
「お前がここで梯子から落ちるのは二度目だな、碧玉」
にんまりと笑う皺だらけの顔は、どこか楽しげである。
「過ぎたことは忘れて下さい。ところで、多節棍の兵法書をお借り出来ますか?」
「ふむ。何に遣うのじゃな?」
鋭い光を放つ黒瞳は、二人の青年を威圧していた。
「それは、俺じゃなくて縞玉に……」
びくっと身を強張らせて、碧玉はそっと縞玉を天祥の方へ押しやった。情けない。と心の中で思ったのは、多分一人だけではなかったはずである。
十九
地の果てまで幾重にも折り重なる山々は、一つひとつが切り立った崖で、その岩肌は刀で切断したように滑らかで鋭い。地面に対してほぼ垂直に近い、突き立ったような岩山の谷底は、覗き込んでもどのくらいの深さなのか、皆目見当がつかなかった。そこからひっきりなしに水蒸気が上がっている。まるで頭をもたげた竜のように次々沸き起こる水蒸気は、乳のような濃い白さを以って視界を奪い、その向こうにある岩山の形さえも隠してしまう。それは、どこまでも続くような雲海に混ざっていき、いつしかその一部になっていた。その雲海のところどころから、まるで大海原に浮かぶ小島のように、頂上だけが恥かしげに顔を覗かせている。
崖の天辺に、まるで模型かなにかのようにさえ見える建物が、ほんの少し碧みがかった瞳に映って、焦茶色の髪の青年は奇異の念に駆られた。何故このような場所に作られたのかと。天に届きそうな程の坂道をどこまでも登っていかねばならない。人ひとりがようやく通れる程の道である。一歩足を踏み外したら、深い谷底へ落ちて行くだろう。一度落ちたら生還は望めまい。つかまるべき手摺さえない道を、体力の配分を考えつつ青年は踏みしめるように歩き続けていた。山の高さはどれくらいなのだろうと思ったが、その数字を知ってしまうのは怖い。世の中には知らない方がいい事というのがあるものだという、海天祥の言葉がふと頭を過ぎる。
西の空の雲の切れ目に白く細い下弦の月が見える。ふと振り返ると雲海の彼方は東から色が変わっていた。陽が昇り初めていたのである。朱と橙を混ぜたような鮮やかな空の下から、楕円に近いそれが名状し難い何かを伴って夜の深い闇を突き破って来る様は、生命そのものの輝きに似ていた。力強さと愛しさに満ちて、それまでに見たどの旭日よりも深い感慨を青年にもたらしていた。
「白玉…」
その瞳から、涙は零れなかった。ただ、深く温かい懐かしさがやわらかく面(おもて)を彩ったようである。
「私を導いてくれるのか」
何時の間にか立ち止まっていた。縞玉は暫く昇る朝日を見つめていたが、やがて意を決したように更に上へと歩き始めた。その先には、彼の目指す場所があった。
朱塗りの門をくぐって、青年は焦茶色の髪を振った。中には外の絶景からは想像も出来ない庭と建物があった。小さな池もある。その池の辺をまわって、丁度大人の歩幅の分だけ離れた敷石をゆっくりと辿り、二つ目の小さな門を通り抜けた。それは最初の門を正確に縮小したもので、装飾も全て縮小している。その先にはまた庭が続いていた。まるで仙人の箱庭のようだと縞玉は眺めた。館の主の性格を反映するものがこの庭であるなら、この山を登り始める時以上の覚悟が必要かと思えた。三つ目の門は二つ目の門より更に小さく、身を屈めねば通れない。その門をくぐり終えた時、目の前にはまた新たな池があった。その先にこじんまりとした館が見えて、青年は息をついた。漸く到着したのである。
「虞縞玉です。老師はご在宅でしょうか」
反応はなかった。青年は躊躇った後、池の端の石に腰をかけて待つことにした。ずっと歩き詰めて、疲れていたこともある。背負ってきた荷物は腰を下ろした石の隣に立掛けた。
先触れは、足音を立てずに静かにやって来た。威厳のある凛々しい顔立ちは、しっかりと縞玉に視線を向けていながら、無関心そのものの表情である。体毛はふんわりと長く柔らかそうに見えた。その地色は橙を帯びた明るい茶で、体下面を白くもったりとした柔らかい毛が覆っていた。頬と首の毛は若干他の毛よりも長いようで、黒い縞の間隔はやや広めかも知れない。逞しい前肢が地面を踏みしめて、縞玉の腕よりも長い尻尾が見え隠れしている。その姿に重なる記憶があった。
「虎玉?」
数年ほど前、密猟者のために母虎を失った子虎を青玉と妹の巫女紅玉が保護し、暫くの間養い育てたことがあった。巣穴にいた二頭の子虎のうち、一頭は衰弱が激しく、結局一頭だけが成長出来たのだが、成体になれる個体は多くはないようである。その怪我が回復するのを待って、いつか自然に帰すことを考慮した結果、ここに預けることになったのだった。徐々に自然に馴染みつつ、近頃はここにひっそりと住む老師の護衛代わりを務めている、と小耳に挟んでいた青年は、その登場を驚きはしなかったものの、その大きさに目を見張った。虎玉は縞玉から少し離れたところで立ち止まり、後ろからゆっくりと歩いてくる人影を待つように左に避け、その場に音もなく座った。その頭を愛しげに撫でる白い手の指の動きに、うっとりしたような目をしつつ、甘えるような声を出す。
「虎玉、ありがとうね」
その声に満足したかのように、虎玉は音もなく立ち上がり、長い尻尾をゆらゆらと振りながら歩き去る。その後姿を見送り、館の主が縞玉の前に立った。
「待たせてしまったかしらね、縞玉。久しいこと」
嫣然と微笑むその姿は、歳を重ねてはいても瑞々しさに満ちていた。年齢を考えれば縞玉の父叔鐘より五つ若い筈である。しかし父と比べると、妹どころか娘とさえ言っても肯く者はいそうだった。白く艶やかな肌、豊かな黒髪と少し大振りの鮮やかな黒瞳。限界まで薄めた墨にも似た薄化粧は、女性らしさを感じさせつつも嫌味のないものであった。何よりも傾斜の険しいこの崖の道を登ってきていながら、息も上がっていない。女仙とはこういうものか、と青年は驚異の念を憶えた。
「早くからお出かけだったのですね」
「払暁(ふつぎょう/夜明けのこと)にしか採れないものがあるの。虎玉に助けて貰ったわ」
少女のような微笑みを浮かべる。しかしその両手にはそれらしいものはないようだ。
「叔瑤叔母上…、いえ老師。お久しゅうございます。」
甥の言葉を聴いて、ふと首を傾げた。切れ長の黒い瞳が先を促す。
「弟子を取らぬのは存じておりますが。医術を学びたく参上致しました」
そうやって項垂れた青年を見遣って、空を仰いだ。
「……白玉? あの子の?」
「……どうか」
海叔瑤は深い吐息をついた。姪が亡くなったことは知ってはいる。その病のことも。しかし。
「ここでの生活は、恐らくお前の想像以上に厳しいものとなりましょう。お帰りなさい」
「老師!」
「ここへ来ることは、逃げではないのですか? 白玉の思い出が詰まる海邑を捨てて来ただけでしょう?」
「いいえ!」
碧みがかかった瞳の色が、意志の強さを現すように深みを増した。
「留まって嘆いていることこそ、白玉大姐は望まないと私は思いました。ならば、自分に出来ることを探しに出ようと」
「言い訳をおっしゃるな」
ぴしゃりと言い放ち、縞玉に背を向けた。湖の上の小舟に片足を入れる。
「老師! きっかけは大姐でも、私は気づいたのです」
「何に気づいたと?」
「私は、救いたい。その為に、学びたいのです」
その顔には真剣な色があった。叔母は小舟に乗ったまま振り向く。
「……修業には何年もかかります。終わるまでここを離れることは許しません。それでも?」
「はい」
覚悟を決めた目がまっすぐに見据えている。一瞬、視線が絡み合った。黒瞳の向うはまるで無限に広がる深い暗闇のようだ、と縞玉は思う。
「…私は厳しいですよ」
「元より」
苦笑が微かに混じったようなその答えを受け、再び青年に背を向けて、叔母は少し前へと足を踏み出した。その背が軽く揺れたようである。小舟に出来た空間に、縞玉は足を踏み入れる。細い竿を操って、叔母の館へと舟は動き出した。青年の未来を乗せて。
二十
暫く稽古をすることにしたのは、黄玉の発案である。久しぶりに遣う武器では怪我をする恐れもあったし、何より久しぶりの帰邑なのだ。急ぐ必要がないからと縞玉が了承したのは、多節棍に何かあるからだろうと碧玉は見当をつけていた。その理由は黙して語らぬが、事情があるのだろう。
そして、模範試合の武器とは別に、縞玉は、天祥からじきじきに多節棍の指導を受けることになった。海一族の長老の亡き恩師は、多節棍の遣い手であったのである。天祥自身は邑主とならねばならぬ身ゆえ、流派の総帥を継ぐことは出来なかった。他に妥当な後継者を見つけ出すことが出来なかった師は、流派の至宝を天祥に託したのである。
「持っていくことに問題がないとは言わぬ」
それだけ、天祥は縞玉に告げた。
「はい……」
「叔瑤の指示か?」
それには肯きで応えた。遠くを見上げるような天祥の瞳に、哀切なものが漂う。遥か遠くに去った娘は、今もなお、かつて苦しんだ先見の力に怯えているのだろうか。
「叔母上は……。先見の力はもう殆ど残っていません。ただ、今回は」
焦茶色の髪の青年は、そう言って多節棍を手に取った。