トム物語

十三


 ヨセミテ公園を出たのは、夕方でした。近くに、ジムの親しい友人が居るということで、そちらに遊びに行くことになったからです。明日いよいよジムやリズ、トムとお別れです。丁度その友人が、川崎さんが行きたがっているアーミッシュ村に詳しい人だということで、最後の夜はそのお家に泊めてもらうことになりました。ログハウスっぽい作りが、シエラの雰囲気にとても良く似合っています。
「ニック!」
「ジム!! 久しぶりだ。リズはすっかりレディだな」
 ニックは、淡い灰色の髪と、リズとお揃いの緑色の瞳をした、赤ら顔のおじさんでした。ジムだって大柄だけど、ニックと並ぶと普通の体格に見えてしまいます。ジムがブラックベアなら、ニックはそれより一回り大きいグリズリーかも知れません。恰幅のいい体は、とても頼もしそうに見えました。トムくんが肩に登ると、まるでリスみたいに見えてしまいます。ニックは嬉しそうにジムを抱きしめ、リズには軽く頬にキスをしました。
「これが弟のトム。こっちは日本から来た俺の友人でマヒトだ。それからマヒトの猫。トムっていうんだが、弟と紛らわしいからチビって呼んでる」
「ほうほう、今日は連れがいっぱいだな。何もないが、ゆっくりしていってくれ。はじめまして、マヒトにトムにチビトム」
 そう言って、温かな優しい眼差しで一人ひとりに握手を求めました。トムくんは爪でニックが怪我をしないように注意して、前足を差し出しました。リズやジムはもう慣れっこですが、ニックは目を丸くしています。
「……面白い猫だな」
「だろ?」
「アンジェラのいい遊び相手になりそうだ。……アンジェラ!!」
 そっとニックの後ろから出てきたのは、濃い灰色の猫でした。リズが嬉しそうに抱き上げます。
「久しぶりね、アンジェラ。元気だった?」
 その猫は、とても不思議な瞳でトムくんを見ています。何だか品定めでもされているような気分になったトムくんは、ニックの肩からトムの右肩へ飛び移りました。それを追いかけるようにアンジェラもトムの左肩へ移動します。徐々にトムくんに慣れてきていたトムでしたが、これはちょっと刺激的すぎたみたいです。トムくんは急いで川崎さんの肩へと移動しました。アンジェラがまた移動する前に、トムはやっぱり気絶してしまい、アンジェラは危うくその下敷きになるところでした。
「どうしたんだ?」
「やっぱりまだ駄目か。……俺の弟は猫が苦手だったんで、このチビに助けて貰ってリハビリしてたんだが……。チビ個体は大丈夫でも、猫全般はまだ駄目みたいだな」
「なるほど。だが一つの個体に慣れたのなら、その数を増やしていけば大丈夫だろう」
 なんとかトムの下敷きにならずに済んだアンジェラは、またトムくんを追っかけ始めました。トムくんは家具や机にあるものを倒したり傷つけたりしないように注意しながら、逃げまくります。どうやら持久力はトムくんの方が上みたいでした。そのうちアンジェラは追いかけっこをやめ、息をぜいぜいさせながら、トムくんに向かって言いました。
「いっときますけどね、ここはあたしの縄張りよっ、あんたなんか入れてあげないんだから!!(注:人間にはふぎゃぎゃぎゃ〜!!と威嚇の声に聞こえます)」
「俺は縄張り荒らしをする気はないよ。この川崎さんと一緒に来てるだけだから。明日には出て行くと思う。安心して(注:もちろんにゃにゃ〜あと聞こえています)」
 トムくんが近寄ってそう言うと、アンジェラは猫びんたを食らわせようとします。慌てて飛びのいて無事だったけど、アンジェラの爪で怪我をしそうになりました。
「アンジェラ!!」
 ニックがアンジェラを厳しく叱り付けました。
「この猫はこの人間、マヒトの猫だ。俺が飼っているのはお前だけだ。今夜彼らは泊まって、明日は出て行く予定だから、仲良くしろとまでは言わないが、喧嘩はするな」
「でも〜(注:ニックには、ふみゃあ〜と聞えます)」
「喧嘩したら朝飯抜きな」
 ニックがそうきつくいうと、アンジェラはトムくんを鋭い目で見つめはしても、攻撃したり追いかけたりしようとはしなくなりました。トムくんとしては、初めて会ったアメリカの猫だし、話をしてみたかったんですけど、アンジェラは聞く耳をもちません。
 夕飯が済んで、川崎さんとニックは、アーミッシュの村について語り合いました。アーミッシュとは、電気や車などを持たない、古い時代の生活スタイルを維持している人たちのことです。アメリカ東部を中心に幾つかそういった人たちの住む村があって、川崎さんは以前から興味を持っていたのでした。
「この辺りにはアーミッシュ村は少ないが、全くないわけじゃない。良かったら案内しよう」
「迷惑でなければ是非お願いしたい。ジム、明日は一緒に行けるか?」
「そうだな。リズもいるし、いい勉強になるだろう。ニックとも久しぶりだし、折角の機会だから行くことにするか」
 そうして夜は更けて行き、それぞれみんな眠りました。トムくんは猫用バスケットの中でおやすみです。インディアン・ロックのアーチの向うに、夕焼けの赤に染まったハーフドームの夢を見ているに違いありません。
 きしっ。きしっ。
 微かな気配に、トムくんは目が醒めました。トムくんのバスケットは窓際の机の上にあって、外の様子が良く見えます。まだ外は暗いけど、半分くらいになっちゃった月が傾いているみたいでした。
 トムくんは胸騒ぎがしていました。ふと、金色に輝く二つの光が、家の外の森の中にいるのに気づきました。
 そっとバスケットを抜け出し、川崎さんの鼻や頬をぺたん。と前足で撫でてみましたが、昼間の疲れが出たのか、ぐっすりと眠っていて起きる気配がありません。隣のジムも同様でした。
 トムくんは仕方なく、隣の部屋へ入って行きました。ニックを起こそうと思ったのですが、起きてくれそうにありません。そうだ、アンジェラ。
 トムくんはアンジェラの傍に行って、音をたてずにその体をゆすりました。アンジェラは寝ぼけて唸りそうになりましたが、トムくんのただならない様子に気づき、黙り込みました。
「家の外に金色の目をした獣らしき影がある。みんなを起こそうとしたが、疲れがたまっていたのか、誰も起きないんだ」
「……はぐれコヨーテが出る話をニックがしてたわ」
「俺は金色の目を見張る。アンジェラは何とかしてニック達を起こしてくれないか?」
「判ったわ」
 トムくんは静かにまた窓へ戻っていきました。月の光が当るところに立つと、金色の目の獣に見つかってしまいます。影になっているところから外を伺うように見ていると、少しずつ近づいてくるようでした。
 血の匂い?
 微かに、だけと血の匂いがします。もしかしたらこの金色の目の獣は、怪我でもしているのかも知れません。どんどん近寄ってくる気配は、少し呼吸が乱れているみたいでした。トムくんはごくり。と唾を飲み込みました。


十四


 金色に輝く目は、トムくんが様子を伺う窓から、少しずつ戸口に向かって移動をはじめました。トムくんは相手に気づかれないように注意しながら、ゆっくりと後を追います。ニック達が目覚めた気配はまだありません。アンジェラはちゃんと皆を起こせるでしょうか。
 戸口には、アンジェラの為の、猫用出入口が一つついていますが、窓がありません。トムくんは、戸口の外側が見える窓からこっそり様子を伺っています。金色の目は戸口の外、三メートル程のところで立ち止まりました。月の光に照らされて、それはそれは不思議な毛の色をした動物がそこにいました。白でもなく、黒でもなく、しいていうなら銀色が一番近いでしょうか。トムくんやアンジェラよりもずっと大きくって、もっとたくましい動物です。耳はぴんと立って、凛々しい顔立ちでした。でも右の後足を少しひきずっているようです。ほんのりと血がにじんでいることにトムくんは気づきました。やっぱりこの金色の目の動物は、怪我をしていたのです。それから何か甘えるように声を出しました。「ニック(注:トムくんにはこう聞こえてますが、ニック達が聞いたらく〜んと聞こえます)」。トムくんはびっくりしました。もしや、ニックの知っている動物なのでしょうか? その時、ぎしっと木の床を踏む足音が響きました。振り返ると、ニックの大きい体が見えました。
「マヒト」
 川崎さんを起こしているようです。トムくんは、金色の目の動物が動かないことを確認して、そっと川崎さんの傍へ行きました。メモになるようなものを慌ててさがします。
「チビトム?」
 ニックが不思議そうにトムくんを見ていました。
「きん め ち におい にっく なまえ」
 ようやくメモ帳を見付け、それだけ書くと、川崎さんの隣においてまた戸口に戻りました。
「チビトム…。これは一体何だ? 何かの記号か?」
 ニックは読むことは諦め、川崎さんを起こすことにしました。先にジムの方が気づき、ニックは唇の前で人差し指を立て、声を出さないように注意します。
「マヒト…、起きてくれ」
 熟睡するとなかなか目覚めない川崎さんも、二人がかりで揺すり起こされ、ようやく目を醒ましました。外はまだ真っ暗です。ニックが説明するより早く、トムくんが置いたメモに気付いて確認します。
「これはチビか。金色の目をした何かが近寄って来ていて、血の匂いをさせてるらしいな。ニックの名前を呼んでるみたいだ」
「その紙にそう書いてあるのか?」
 川崎さんはにっこりと肯きました。
「で、心当たりは?」
 トムくんは戸口のとなりの窓から様子を伺っていました。金色の目の動物は、二、三度ニックの名前を呼びましたが、諦めたように森へ帰っていこうとしています。後ろを振りかえりながら、名残を惜しむようにゆっくりと静かに。
「数年前、狼の子供を保護したことがある。闇でみると金色の綺麗な目をしていた」
 怪我をしていた子供の狼を保護し、治療してやってから森へ放したことがあったのでした。でも本来、動物に干渉することは好ましいことではありません。餌を与えることも、薬を与えることだって、良いことではないのです。ニックは飛び出して行って怪我を見てやりたい気持ちになりました。川崎さんはそんなニックを見て、立ち上がりました。
「チビ。連れてきてくれ」
 トムくんは、アンジェラ用の出入口から飛び出しました。
「待って!(注:川崎さんたちにはにゃおん!と聞こえます)」
 びっくりしたように、金色の目の動物はトムくんを振返りました。見慣れない模様をした猫に、戸惑っているようです。
「誰だ? お前は?」
「ニックが呼んでる」
 金色の目の動物は、ぴくっと体を震わせました。しばらく迷ったようでしたが、首を横にぶるぶるっと振ると、トムくんに向かいました。
「ニックは元気か?」
「とっても」
 そうか、とちょっと笑ったようでした。
「俺は本当は会っちゃいけないんだ。でも怪我をしたらニックが懐かしくなってきちまった」
「ニックも会いたがってる」
 ためらっていたようでしたが、トムくんが先に後ろを見せて戸口に戻っていくと、静かに後についてきました。
 川崎さんが戸口を開け、トムくんを迎え入れてくれました。ニックは外を覗きます。金色の目の動物の姿を見つけた途端、ニックの目に涙が浮かびました。
「やっぱりお前、アレク!」
 堪えきれない様子で、ニックは両腕の中にしっかりとアレクを抱きしめました。アレクは目を閉じて、ニックの腕にもたれています。そのまま暫く声も出さず身動きもせず、二人は再会の喜びをかみしめあっているようでした。
 ふと気付いてアレクの怪我の様子を見て、傷が深くないことを確認したニックは、ほっと安心したように水で綺麗に洗ってあげました。消毒して治療してあげられないので、それで満足しなければならないけど、久しぶりに会えた懐かしい友達との再会を心から喜んでいることはトムくんにも良く判りました。
「お前のお陰だ、チビトム」
 夜明け前にアレクは再び森へと帰っていきました。
「もしかしたら、前にもこうして来たことがあるのかも知れないな」
 ニックがしみじみと語りました。トムくんと川崎さんがいて、初めて実現したアレクとの再会。それは短い時間ではあったけど、とても幸せなひとときでした。
「夢を与えてくれて、叶えてくれた猫だって言ってたな。本当に不思議なやつだ」
 ジムが微笑んでそう言いました。空が少しずつ明るくなって来ていました。夜が明けたのです。
 アレク出没の騒ぎもあって、眠り足りない皆は、もう一度眠ることになりました。トムくんも緊張から解放されてほっと一安心です。猫用バスケットに戻って休んでいたら、何時の間にかアンジェラが隣に来ていました。
「ちょっとは、見直したわよ。……ありがと」
 とりあえず眠くって、トムくんはもう返事が出来ませんでした。並んで眠る猫達をリズが発見して、「可愛い!」と大はしゃぎです。
「チビは昨夜大活躍だったんだ。少し休ませてあげような」
 ジムは娘を抱きしめました。
 翌日はアーミッシュ村へ行く予定を立てていましたが、全員が目を醒ましたのは午後だったので一日予定を延ばして出発することになりました。アーミッシュ村は観光地化されているところもあります。だいたいは事前に許可を貰えれば見学は出来るようなので、川崎さんはニックに頼んで見学させて貰い、スケッチを楽しんでいました。トムくんはその隣にちょこんと座ってその様子を見つめています。アーミッシュ村の人たちは写真撮影されることを嫌う人が多いのですが、スケッチは珍しいらしく、川崎さんの手元を覗き込む人もいます。トムくんに気付いて声を掛ける人もいました。トムくんも川崎さんの絵と、目の前に広がる光景を見比べながら、初めて見る馬車や人々の服装に目を輝かせています。
 伝統的なアーミッシュの服装は、印象的でした。色もどちらかというと地味な色合いで、女性は足首まであるような長いドレスです。白いエプロンを付けたり、頭を白い布で覆ったりしている人もいました。
「かまどって何? パパ」
「アーミッシュ村には電気がないんだ。コンロもない。だから、キャンプの時みたいに火を燃やして食事を作るんだ。かまどというのは昔人間が使っていた、コンロの原形みたいなものだね。下で薪を燃やし、その上にある穴に釜を載せて煮炊きをするんだ。すごく手間がかかるけど、美味しいご飯が出来るんだよ」
 ジムがそう説明している隣で、ニックは時計を見て言いました。
「マヒト、ジム。きりが良ければ食事にしないか。この傍にレストランがあって、美味い飯を食べさせてくれる」
 もちろん答えは決まっていました。
 川崎さんが予定していた旅行の日程は最初っから崩れっぱなしでしたが、ジムとニック、それからトムくんのお陰で、予定していたよりもずっと素敵なものになりました。ジムやニック達とアーミッシュ村へ行った後は、レンタカーを借りてトムくんと二人でドライブをしたりしましたが、前半にハプニングが続いたせいか、後半はとても落ち着いたものになったような気がしました。
 いよいよ帰国することになったのは十二月も後半のことでした。ジムやニックには葉書で連絡をし、空港へ向かうと、なんとリズとトムが見送りに来てくれていました。
「チビちゃん、いつか日本に会いに行くわ」
 リズは緑色の目でトムくんを見つめ、頬にキスをしました。トムはしばらくためらっていましたが、ぼそぼそとつぶやきました。
「ありがとう」
 川崎さんとトムくんはちょっと目を合わせて、それからにっこりと微笑みました。
「早く猫が苦手じゃなくなるといいな。また会おう」
 驚いたように川崎さんを見て、トムはおずおずと手を差し出しました。
「元気で」
 リズとトムを残して、川崎さんはトムくんとロビーを後にしました。その直後、猫用バスケットを抱えたニックが慌てて走って来ました。もちろん、バスケットの中にはアンジェラがいます。
「リズ! トム! マヒトたちは?」
「ニックおじさん! チビちゃんたち、もう行っちゃったわ!」
「間に合わなかったか…」
 ニックはその場に座り込み、はあはあと肩で息をしています。アンジェラはバスケットの中から思いっきり叫びました。
「トム! あんたなんかよりいい雄猫なんか、一杯いるんだからね!!(注:ニックたちにはにゃにゃにゃおん!!と聞こえます)」
「そういえば、トムキャットってどういう意味だっけ?」
 ぽつりと言ったトムの声を聞いて、ニックが吹き出しました。こうして川崎さんはトムくんを連れて、ロサンゼルスを旅立ったのです。


十五


 明るい日差しが降り注ぐ、小春日和の日に、トムくんは川崎さんと一緒に、故郷へ帰ってきました。再入国の動物検疫を半日がかりで終え、ようやく懐かしいシェリーちゃんの待つ家へたどり着いたのは、少し太陽が傾き始めているころでした。なにやら騒がしい様子が家の中から聞こえてきて、トムくんは不思議に思いました。お留守番で淋しい思いをしてるシェリーちゃんが友達を呼ぶことはありえるとしても、こんなにざわざわしてるなんて、何かあったんでしょうか。
「ただいま」
 中に入ると、そこにはたくさんの猫が集まっていました。後ろからついてきている川崎さんもびっくりです。もしかして、トムくんが今日帰ってくると聞いて、わざわざ待っていてくれたのでしょうか? でもそれにしてはシェリーちゃんの姿が見えません。
「あなた…」
 トムくんはドキッとしました。シェリーちゃんの声が、猫たちの真ん中辺から聞こえてきたのです。
 声のする方へ行くと、そこにはシェリーちゃんが段ボールの上に横たわっていました。ミケ母さんがとなりにいます。
「帰ってきたね、トム坊」
 ミケ母さんは、いつまで経っても子供扱いを変えてくれることはないけど、トムくんにとってはとても頼りがいのあるお母さんです。ふと気づくと、シェリーちゃんのお腹がぷっくりと膨らんでいます。そう、シェリーちゃんは今まさに小さなちいさな命をこの世に送り出そうとしているのでした。あまりのことに、トムくんは驚いて声も出ません。後ろから覗き込んだ川崎さんが、驚きの声をあげました。
「シェリーが子供かぁ。チビ助、お前もオヤジなんだなぁ」
 シェリーちゃんが苦しみ出しました。でもトムくんにはどうすることも出来ません。頑張ってといって優しく前足でさすってあげることしか、出来ないのです。こういう苦しみは何回か波のようにやってきて、産まれるのだとミケ母さんが教えてくれましたが、その回数が増える程に体力を奪われていくようです。
「こんなに苦しんでたのを知らずにいたなんて…ごめん」
 苦しい息の下で、シェリーちゃんはふっと微笑みました。必死に頑張るその姿は、きらきらと輝いて見えました。
 シェリーちゃんがようやく出産を終えたのは、夜になってからでした。白っぽい子、全体的に茶色い子、それから真っ黒な子。トムくんとシェリーちゃんはいっぺんに三猫のお父さんとお母さんになったのでした。初産だからこんなもんよ。とミケ母さんは、子猫たちをなめて綺麗にしているシェリーちゃんの世話を焼いています。川崎さんはその様子をじっと観察し、時には段ボールを替えたり汚れものをどけたりと手助けをしてやりながら、スケッチしたり写真を撮ったりしていました。シェリーちゃんは、なめおえた子猫から順番にお乳をあげています。
「どんな目をしているのかしら?」
 ぐったりと疲れた様子で汗だくになりながらも、シェリーちゃんはうっとりとした、しあわせいっぱいの笑顔で子猫たちを見つめています。まだ開かない小さな目を愛おしそうに見つめるシェリーちゃんに、トムくんはまたドキドキして、視線を彷徨わせています。
「あなた、どうか…?」
「えっ」
 トムくんの何やら不思議な仕草に、真正面からしっかりシェリーちゃんは見つめました。
「今日、何か変よ? 私の方を一度も見ようとしていないわ」
 シェリーちゃんは少し淋しそうに眉を寄せました。トムくんは慌てて言葉をつなぎます。
「あっ、そのね。ミィがね」
「ミィ……?」
 アメリカで夢に出てきた、黒猫のミィ。シェリーちゃんにその話をしたいとトムくんは思いました。
「いつだったか、黒猫のミィの話をしたかな?」
「ええ、確か旅先でお世話になったって……」
「夢に出てきてね、俺のところに行くよって言ってたんだ」
 シェリーちゃんは驚いています。
「私もね、つやつやした毛並みの、印象的な目をした黒猫に会う夢を見たのよ」
「えっ……」
 二猫には、話したいことが本当に沢山ありました。
 小さな猫たちがミルクを飲み終えて、ようやく落ち着き、手伝いに来てくれていたミケ母さんをはじめ、みんなが帰っていった夜更け。トムくんはシェリーちゃんと久しぶりにゆっくりしていました。
「おつかれさま。結局何も出来なかったよ」
 トムくんが声をかけ、労るようにシェリーちゃんに触れました。シェリーちゃんは子猫達に注意しながら、トムくんに身を寄せました。
「今日は人間がクリスマス・イヴっていう日なんでしょう? あなたはちゃんとプレゼントをくれたわ。この子たちと、あなた自身を」
 そういって、トムくんに向き直り、素敵なお花がひらくように微笑みました。
「お帰りなさい」
 その途端、シェリーちゃんを映しているその瞳がみるみるあいだににじんで、大粒の涙がこぼれ落ちました。
「ありがとう」
 ずっと天涯孤独だったトムくんは、ようやく家族のもとへ、故郷へ帰ってきたのでした。
「それから……ただいま」
 トムくんの冒険の物語は、これでおしまいです。えっ、川崎さんですか。川崎さんは、今も冒険する猫のお話を書いているんですよ。それは、ちょっと淋しがり屋で、でもとても勇敢で優しくて、賢い猫の物語。小さな子供たちだけでなく、いろんな人に夢と希望と、温かい力を与えてくれるのでした。そう、トムくんが川崎さんにとってそういう猫であったのと同じように。もし三毛猫に出会ったら、「トム!」って声を掛けてみて下さい。トムくんならきっと返事をしてくれるはずです。猫語で、ですけどね。

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