賀廷玉の冒険

 賀廷玉は最初から賀廷玉という名を持っていた訳では無かった。彼の主人であるずぼらな女の子が、勝手に付けただけに過ぎない。
 その名が付けられた事が賀廷玉にとって幸福であったかどうかはともかくとして、その女の子が彼の主人となってしまったことは、少なくとも彼にとって災難であったであろうことは疑いの余地が無い。彼はその主人に仕えたことに関して、苦情を言いたくても言えなかったが、彼より僅かに先輩になる花木蘭が、奇妙に幸運であることに羨望を抱いても不思議ではないだろう。先輩のことはさておき、彼は率直に言って不幸だった。 最初の災難は、動く階段である。異魏罹須(いぎりす)という国で吏太(りふと)とか呼ばれているそれは、階段が流れて人を運ぶものであった。主人はそれに乗っていたが、ふと、賀廷玉が白くぼやけたのに気付いて、目元を薬指で微かに引いた。その瞬間、賀廷玉はまっさかさまに落ちて、階段の溝に吸い込まれた。
「きゃっ!」
 女の子は慌てて非常停止釦を押した。流れる階段を止めて賀廷玉を救おうとしたのである。だが、僅かに遅かった。
 女の子が事情を説明しに行っている間に、賀廷玉の吸い込まれた階段は動き始めた。気付くと、守衛の中年男性が鍵を使って始動させているところだった。
「あの、止めたのは私なんです。コンタクトレンズを落としてしまって」
「え? なんだって。コンタクトレンズを落とした?」
「はい。車を運転してきたので、コンタクトがないと困るんですが、戻らないでしょうか? 破片でも手に入らないと…」
「困ったねえ。じゃあ、一寸来て」
「はい」
 賀廷玉が無事に還れる望みは薄い。主人たる女の子は、頭の中でお金の計算をしながら賀廷玉の心配をしていた。
「何でこんなにコンタクトが割れたり無くなったりするんだろう? 名前を付けないからかしら?」
 この瞬間、彼に名前を付けられることが決定したのである。

 賀廷玉という名前が決められたのは、その日の夕方のことであった。女の子がその時、愛読していた小説の登場人物から名前をとったのである。由来になった賀廷玉という人物は、少なくとも幸せであった。小説の中ではとりあえず死ななかったし、綺麗な女性と結婚したことになっている。そしてその連れ合いとなった花木蘭という名前が、賀廷玉の先輩に付けられた。「仲良くあれ」ということらしい。
 しかし、名前が付けられても、賀廷玉の苦労や心配が激減した訳ではなく、彼はまた幾多の辛酸を舐めることになるのだった……。

 名前が付けられて最初の災難は、電車の中で起こった。朝に弱い女の子は良く通勤電車の中で熟睡する。そして目的の駅で到着するまで目覚めない。コンタクトをしたまま瞼を閉じていることは大変危険であったが、眠気に勝てない女の子はいつもあっさりと誘惑に溺れ、賀廷玉をうんざりさせるのだった。
 いつものように彼女は電車に乗っていた。その日は心待ちにしてた雑誌の発売日で、珍しく眠らずに雑誌のページをめくっていた。
 ふと、スカートの裾が気になった女の子はそれを直しながら窓の外を見た。
 その時である。読書に疲れた目は賀廷玉をキープすることができず、彼はまっさかさまに落ちていった。その場所は彼にもどこなのか見当がつかない。女の子は動転しながら慌てて捜す。次の次には大きな駅があり、今は空席の目立つ車内も恐らく10分後には満席になっている筈だからだ。
 ボックス席のシートから立ち上がり、女の子は賀廷玉が光に反射するのを期待して顔の位置を床に近づけた。反対側に座っていた男性が腰を浮かせかけたが、捜している物体がコンタクトであることを知ると、踏んでコンタクトを割ることがないよう足の位置を変えずに注意して着席した。女の子はその配慮に感謝し、はいつくばって賀廷玉を捜し求めた。
 ボックスシートでも、二人がけ程度なら外すことが出来る。女の子はえいやとばかりにシートを持ち上げてみた。賀廷玉らしい輝きは見つけられないまま、乗降客の多い駅に辿り着き、彼女は諦めて座席に腰掛けた。
「あっ…」
 先程の親切な男性が小さく叫んで彼女の胸元を見た。
「えっ?」
 ゆったりと巻いたマフラーのひだの間に、賀廷玉が落ちていた。助かった、と賀廷玉は思ったかも知れない。しかしそれには「今回は」と付けるのが妥当と思われた。

 次の災難は洗面台だった。女の子の一日は洗顔を済ませた後にコンタクトレンズを入れることから始まる。良くそこで弾いてはタイルの床に落とすので、彼女も賀廷玉を探すのが巧くなっていた。弾かれたと推測される方面へゆっくりと懐中電灯を当てると昼間でも彼は反射するので発見が容易だったのである。床に顔を近づけることには多少の抵抗があったが、背に腹は変えられないのだ。しかしその朝はいくら探しても見つからない。バスの時間が迫っていたし、片目には花木蘭がおさまっていたから、女の子は母親にコンタクトを紛失したので破片を見つけたら教えて欲しいと伝え、そのまま出かけて行った。
 夕方学校から帰宅すると、母親が憮然とした顔で女の子を出迎えた。彼女はずっと床に弾き落としたと思っていたのだが、排水管から発見されたというのである。蛇口の傍に小さな穴があり、そこから落ちたらしかった。母親は排水管の水を洗面器に貯めながら静かに探したようだが、その根性には持ち主である女の子の方が脱帽した。何はともあれ、賀廷玉は再び眼鏡屋に連れて行かれ、再三の精密検査を受けた。流れる階段で落ちた時も不思議に無傷だったが、今回もまた無傷に終ったのは、彼の名の由来となった人物もまた頑強な肉体を誇っていたからかも知れない。

 一番シンプルな災難は、女の子の学校の洗面所で起こった。彼女は時折賀廷玉の調子が悪くなると、一旦洗浄して入れなおすのである。その時も寝不足のせいもあってか、目脂が酷く、彼女は携帯用の洗浄液で彼を綺麗に洗っていた。その時、ふとした弾みで賀廷玉がひっくり返った。
 彼はハードである。だから、ソフトコンタクトレンズのように表と裏がひっくり返ったりはしないものだ。が、事実として裏返し状態になってしまったのである。そういえば気温もいい頃合だし、季節も夏に近い。鉄だって暑ければ歪む事だってありうるのだ。と彼女は思い直して、そっと静かに、力を入れた。
 賀廷玉は、無事にひっくり返った。

 災難続きのまま三年程が過ぎ、彼もコンタクトレンズとしては老いていた。いつの間にやら細かい傷が増え、それによって使用者の眼球に悪影響を与えるようになっていたのである。そんなある日、彼の先輩花木蘭が女の子の目の中で割れた。賀廷玉と違って一切災難に見舞われなかったが、健康な人がぽっくり死ぬように往生を遂げたのである。
「私もこうありたい」
 と彼は思っただろう。しかし、真っ二つに割れたコンタクトレンズに怖れをなした女の子は、賀廷玉の思惑とは違う方向へ動いた。……買い替えである。それも、ディスポーザブルへ。そして彼の仕事は終った。花木蘭の後を追えると思ったが、そうは問屋が卸さなかった。女の子はホルマリン漬けをイメージし、彼を保存液に漬けたまま自室に保存したのである。それは、彼女なりの感傷もしくは記念あるいは自戒であるかも知れなかったが、賀廷玉には迷惑極まりないことであったに違いない。博物館に並ぶネズミの標本のように彼は女の子のコレクションの一隅に迎えられた。彼の冒険はここで終わりを迎えるように見えたが、いつか女の子がとんでもないミスを犯して大海に乗り出すこともあるかも知れない。そう彼は思っていた。そして彼はその小さな博物館で、静かに眠りについたのだった。隣には花木蘭の遺体もある。彼は慣れないディスポーザブルレンズと格闘する女の子を横目に見ていた。ふっと意識が遠くなったのはそれからまもなくだった。

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